西蔵編(31)シガツェ
シガツェ(日喀則)に到着し、テンジン・ホテル(丹増旅館)(現在は閉館?)にチェック・インした後、街の散策に出かけた。
まず最初に向かったのがゲルク派(黄帽派)六大寺院の一つ、タシルンポ寺(扎什倫布寺)( Tashilhunpo Monastery )だった。
※ゲルク派とは、チベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ニンマ派、カギュ派、サキャ派)。15世紀にツォンカパ(ジェ・リンポチェ)(1357~1419)によって開かれた学派で、戒律を重視している。戒律を守っていることを示す黄色い帽子を被っていた為、黄帽派と云われた。17世紀にチベット最大勢力となり、ダライ・ラマやパンチェン・ラマもこの学派に属する。
※ゲルク派六大寺院参拝の記事は下記参照
(1)ガンデン寺 ⇒ 記事はこちら
(2)セラ寺 ⇒ 記事はこちら(前編)とこちら(中編)とこちら(後編)
(3)デプン寺 ⇒ 記事はこちら
(4)タシルンポ寺 ⇒ 今回の記事
(5)クンブム(・チャンパーリン)寺(タール寺) ⇒ 記事はこちら
(6)ラプラン(・タシーキル)寺 ⇒ 記事はこちら
タシルンポ寺は、15世紀中期にゲルク派開祖ツォンカパの高弟ゲンドゥン・トゥプ(後のダライ・ラマ1世)(1391~1474)によって創建さた。
ダライ・ラマ5世(1617~1682)の在位時代(1642~1682)に、僧院長ローサン・チョエキ・ギャルチェン(1570~1662)が、パンチェン・ラマ4世の地位を得てから栄華を極め、ラサ(拉薩)のダライ・ラマ政権と対立することもあった。
その後、歴代のパンチェン・ラマがここを生活拠点として宗教活動と政治活動を行ってきた。
寺院の中には、歴代パンチェン・ラマの霊塔がある。
最盛期には約4500人の僧侶がいたが、現在は1000人程が修行している。
タシルンポ寺に着いてから入口の門をくぐって中に入り、付近にいた僧侶に寺院の外観の写真を撮らせて欲しいと頼んだところ断られた(後できちんと参拝するつもりだったが、先に写真を撮りたかった)。
その時の対応が野良犬(のらいぬ)を追い払うような扱いで、仏の道とかけ離れている印象だった為、寺院を参拝したいという気持ちが失せた(非常に観光地ずれしていると感じた)。
(下記写真は、門外から撮影したタシルンポ寺)
その後、寺院の周囲をコルラ(巡礼)した。
(下記写真は、寺院をコルラしていた若い僧侶達)
コルラをしていると、シガツェ・ゾン(日喀則宗)に辿り着いた。
シガツェ・ゾンはタシルンボ寺を見下ろす山の上に築かれた城塞の跡地で、かつてはポタラ宮のモデルにもなったそうだ。
チベット動乱時に中国人民解放軍の侵攻により徹底的に破壊されたらしく、当時は廃墟になっていたが2007年夏に再建された(再建された建物は、ポタラ宮と言うよりラサ駅に似ているらしい)。
(下記写真は、当時の城塞跡)
シガツェ滞在中に気が変わったら参拝しようと思っていたが、翌日に訪問したギャンツェ(江孜)のパンコル・チョーデ(白居寺)( Palkhor Monastery )が素晴らしく、チベット寺院の見納めとして満足した為、結局タシルンポ寺を再訪しなかった。
今振り返ると、寺院を参拝しておけば良かったと思う。当時またいつかここに来ようと思ったチベットに再訪出来ていないのだから。
※地図
(旅した時期:2004年)
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西蔵編(30)タルチェン~アリ~シガツェ
2泊3日のカイラス山巡礼を終え、タルチェン(大金)まで戻って来た時、心が澄み切っているのを感じた。
宿(四海招待所)の親父は、巡礼前は30元だった宿代を20元にしてくれた(粋(いき)な計らいだ)。
アリ(阿里)((ン)ガリ)に戻るバスが遅れていて、出発が2日後になるということだったが、実際は翌日に出発した。
但し出発が18時と遅く、アリに着いたのは日付が変わって午前1時だった。
時刻が夜中だった為、降ろされた場所からすぐ近くの宿に宿泊した。どうやらこの宿は本来中国人しか泊めることが出来ないらしいのだが、宿の主人がこちらの状況を判断して泊めてくれた(感謝)。
目覚めてからバスターミナルに行くと、ラサ(拉薩)行きのバスが翌日出発するとのこと。どうやら空席は一つだけらしい。運良く最後のチケットを手に入れることが出来た。
このバスを逃していたら、次のバスまで一週間待たされるところだった。故障などで度々(たびたび)遅延も発生する為、便がある場合は利用した方が良いというのが西チベットのバス事情だ。
翌日13時にアリを出発。舗装区間は一部のみで、その後は未舗装の悪路をひたすら走る。
今回は最後に切符を手に入れた為、寝台席は一番揺れのひどい最後部だった。天井まで80cm位のスペースがあったが、幾度となく跳ね上がって天井に頭をぶつけた。
この後、地名は不明だが食事を取った時間のみ記録している(それ以外はトイレ休憩時のみ停車)。
(1日目) 17時
(2日目) 2時、10時、22時
(3日目) 9時、22時30分
バスはようやく4日目の朝6時にシガツェ(日喀則)の街に着いた(アリから所要65時間)。
このバスの移動も、ある意味修行のような体験だったと思う。
シガツェの街は、ラサの西約230kmに位置するチベット自治区第二の都市だ(標高3900m)。シガツェとは、【シガ・サンジュ・ツェ】(願い通りに希望を達する)を縮めた言葉だそうだ。
チベット自治区ではあるが、ラサ同様漢民族の店が多かったのを覚えている。チベットというより中国の地方都市のような街並みだった。
ここでは、テンジン・ホテル(丹増旅館)(現在は閉館?)に宿泊した。
シガツェで有名な観光名所は、ゲルク派(黄帽派)六大寺院の一つ、タシルンポ寺(扎什倫布寺)( Tashilhunpo Monastery )だが、結論から言うと外から見ただけで内部を見学していない。
今振り返ると、参拝しておけば良かったと思う。
※地図
(旅した時期:2004年)
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おまけ(その8)不思議な夢の話(2)
※西蔵編(29)カイラス山(後編)のおまけ記事
カイラス山巡礼3日目の未明(夜中の2時過ぎ位だったと思われる)、ズトゥル・プク・ゴンパ近くの宿(ツトゥプ・ゲストハウス)にて奇妙な夢を見ており、その内容を旅日記に記録している。
(1) 友人達が登場した夢を見ている(登場人物の名前を記録)。
(2)(宗教詩人)ミラレパの意識に2回程触れた?犬が騒ぐと記録している。
(3)「ニイタマノ イナギノミコト」とは誰?と記録している。
上記(1)~(3)について追記させて頂く。
この宿には小さなネズミがいた。そのことに気付いたのは就寝してからだった。
宿の周囲には荒涼とした大地が広がっており、ネズミにとって食料を手に入れる為には、この宿で探す方が効率が良いのだろう。
お目当ての食料が見つからないせいか、ネズミが一晩中部屋を走り周っていたおかげで、こちらは熟睡出来なかった。酸素が薄いこともあり浅い眠りを繰り返していた。
そのような状況下で見た夢だ。
上記(1)については、普段よく見るような種類の夢だと思う。
上記(2)については、旅日記を読み返すまで忘れていた。
目覚めている時であれば、自分がミラレパの意識に触れたなどと書くのはおこがましいと考えるだろう。
不思議なもので、夢を見ている時は直感的に受け止めている為、ありのまま見たことを書き綴っていることが多い。
上記(3)については、今でも状況を覚えている。
ストーリーのある夢を見ていたのではなく、睡眠中に言葉が思い浮かんだという方が正しい。
夢を見て目が覚めても眠気が勝ってしまう場合があるが、起き上がって記録しないでいると夢の内容を忘れてしまうというケースが多々ある。
この時は忘れないうちに記録しなければならないと強く感じて記録した。
ただ、手に取るペンを間違えて青ペンで記録している(通常は黒ペンで記録するのだが、この部分だけ青で書いている為目立っている)。
「ニイタマノ イナギノミコト」について、以前日本神話に詳しい方に聞いたことがある。
その方の見解では、新魂のイザナギノミコト(伊邪那岐命)のことを意味するのではないかとのことだった。
青き神シヴァ神に関連があるのかもしれないと思ったが、それ以上の考察は今のところ無い。
(追記)
旅日記を読み返していて気付いた、アリ(阿里)((ン)ガリ)の街で見た夢についても書き記しておきたい。
それは私の父が亡くなる夢で、その病状を書き記している。
人が亡くなる夢を見ることはあるが、不思議なのはこの夢を見たちょうど5年後に父が亡くなったことだ(病状も当たっている)。
当時父には病気の症状も出ておらず、元気だったことを考えると、予知夢的なものかもしれないと思った。
当時の私は、情報を受け取る感度が良かったのかもしれない。
夢日記を十年以上書き綴っているが、たまに予知夢的な夢を見ることがある。
ほとんど読み返していない為、自分が気付いている以上に予知夢的な夢を見ている可能性もある。
最近思うのは、見ている夢の中に幽界の情報が含まれていることがあるかもしれないということだ。
幽界についてネットで調べると死後の世界と書かれているが、ここで言う幽界とは泡のように無数に現れては消える確定前の宇宙(これもパラレルワールド(並行宇宙)の一つかもしれない)のことで、そこには現実世界に起こる因子(実現の可能性)が存在する。
※以前にも書いたが、夢については様々な種類があり、一括(くく)りに出来ないと思っている。
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西蔵編(29)カイラス山(後編)
カイラス山巡礼2日目の朝、ディラ・プク・ゴンパで目覚めた時には隣で寝ていた僧侶達は既にいなかった。朝の勤行に行ったと思われる。
ここに水道は無い為、洗顔は川の水を使うしかない。カイラス山の北側に位置する為、日陰になる時間が長いのだろう。川には一部氷が張っていた。冷たい水で顔を洗うと身が引き締まる思いがした。
朝食(持参したカップゼリー)を食べた後、寺院(ゴンパ)を出発。
しばらく歩いていくと、上り坂の傾斜がきつくなってきた。
酸素が薄く息苦しかったが、「ゆっくりでもいいから決して休まずに歩くこと」という登山経験者の助言を思い出し、歩き続けた。
腰を下ろして休んでしまうと立ち上がって歩く気力が無くなる為、この時ばかりは飲み食いする時も歩き続けた。
ようやく、コルラ(巡礼)の最高地点ドルマ・ラに到達した(標高5630m)。
そこには、巡礼者達が残していったおびただしい量のタルチョ(祈りの旗)がはためいていた。
ドルマ・ラを越えて気が楽になったのか、それとも水・食料を消費して荷物が軽くなったからか、ここから足取りが軽くなったが急ぐ必要もないので、2日目はズトゥル・プク・ゴンパ近くの宿(ツトゥプ・ゲストハウス)に宿泊した(ここで不思議な夢を見ている⇒記事はこちら)。
3日目、まず最初にズトゥル・プク・ゴンパに参拝している。
ズトゥル・プク・ゴンパは宗教詩人ミラレパ(1052~1135)が開いたお寺で、ミラレパが瞑想したとされる洞窟がある。
ここでミラレパは、ボン教徒のナロ・ボンチュンと神通力勝負で、カン・リンポチェ(雪の尊者)(カイラス山のチベット語名)の覇権争いをしたという伝説が残っている。
(1回戦)
力比べ:洞窟を作って競い合う
ミラレパとボンチュンが巨大な岩を素手で割った。
その岩を洞窟の壁にしようとしたボンチュンに対し、ミラレパは岩を洞窟の天井にするべく宙に浮かべた。
それを見たボンチュンは圧倒されて何もできずにミラレパの勝ち。
ここズトゥル・プク・ゴンパにある洞窟はこの時作られたものだそうだ。
(2回戦)
競争:どちらが先にカイラス山頂に着けるか競い合う
夜明け前、ボンチュンは太鼓の音に乗って飛び立った。
一方ミラレパは、呑気(のんき)に麓で待ち、日の出と共に射した日の光に乗って、一瞬でカイラスの頂上に到着(またもやミラレパの勝ち)。
以来、ボン教徒はカイラス山をチベット仏教徒に譲ってしまったという。
ちょっとボン教徒にはかわいそうな話だ。
その後は、ゴールのタルチェン(大金)が近づき達成感があったのか、足取りがどんどん軽やかになっていった。
コルラ(巡礼)をやり遂げたという驕(おご)りが生まれつつあったその時、頭を「ガツン」と殴られたような衝撃を受けた。
なんと、目の前に五体投地をしながらコルラしている巡礼者がいたのだ。達成感に浸っている自分がとても小さく思えた。
思わず駆け寄り持っていたチョコレートを渡すと、彼はちゃんと食べてくれた。嬉しくなっていろいろ食べ物を勧めたが、彼はそれ以上受け取らなかった。
五体投地をする写真を撮っていいかと聞くと、快く承諾してくれた。
※五体投地:視点が低くなることにより、人間の優位性からの解放を目指す行為となるそうだ。
この時、感動で胸がいっぱいになっていた。
聞くところによると、何百kmもある遠方より五体投地をしながらカイラスにやって来る巡礼者もいるらしい。
※五体投地には1周、3周、7周、21周のランクがあるそうだ(カイラス1周に約2週間かかる)。
(写真の背後に見える山はナムナニ峰)
彼らは何も生産的なことはしていない。巡礼してもお金にはならないのだ。
しかしそれでいて、こうも感動を覚えるのは何故だろう。
後年四国遍路をしている時、「何故お遍路をしているのか」とよく聞かれたが、その一番の理由はこのカイラス巡礼の体験だと思う。
神々しい神の山と、ひたむきな巡礼者の姿。その風景の中に自分も含まれる瞬間があったということが、その後の人生に大きな力を与えてくれている。
あの、何物にも変えがたい体験を再び味わいたくて、自分は四国の地を歩いたのだ。
この光景は一生忘れることのない魂の記憶、そして、立ち上がる力の源となっている。
※地図
(旅した時期:2004年)
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おまけ(その7)WPPD
※西蔵編(28)カイラス山(前編)のおまけ記事
旅日記を読み返すと、WPPD( World Peace & Prayer Day )(せかいへいわといのりの日)について何度か書き綴っている(イベントに参加した旅人とチベットで出会って会話した記録など)。
このイベントが日本(富士山の麓)で開催されたのは、2004年の夏至の日前後(6月19日~22日(最終日は後片付け・清掃))だった。このイベントの約1週間後にチベットに向けて出発している。
旅行代理店がこのイベントの為のツアー(2泊3日(6月19日~21日))を企画していたが、ツアーに参加するか正直迷った。6月後半にチベットに向けて出発する計画を立てていた自分にとって、チベット旅行の予算を削ることになるからだ。
しかし、このイベントの持つ意味は大きいと考え参加を決めた(参加して良かったと思う)。
当時購入した本『ホワイト・バッファローの教え』(アーボル・ルッキグホース著、WPPD 2004 JAPAN 事務局発行、スタジオ・リーフ発売)を読み返してみた。
※チーフ・アーボル・ルッキングホース:聖なるホワイト・バッファロー・カーフ・パイプの19代目の守り人
※スタジオ・リーフのHPはこちら
WPPDのイベント開催の背景には、スー族(ラコタ族、ダコタ族、ナコタ族)に伝わる伝説【ホワイト・バッファローの教え】がある。
(以下、上記書籍より一部引用)
《プテサン・ウィンヤン(ホワイト・バッファロー・カーフ・ウーマン)の話》
(P21)
今から19世代前、私たちが今日プテサン・ウィンヤン(ホワイト・バッファロー・カーフ・ウーマン)と呼ぶ、美しいスピリットが聖なるチャヌパを我々の民に授けてくれました。彼女は聖なる7つの儀式と、母なる大地の上を聖なる方法で導くよう、教えてくれました。彼女は言いました。「パイプを見ることができるのは良い人間だけです。悪い人間は見ることも触ることもなりません。」
※チャヌパ:(聖なる)パイプ
(中略)
(P23)
彼女は諭(さと)しました。
「儀式には良い心で向かいなさい。聖地を敬い、聖なる儀式を敬いなさい。一つひとつの聖地が偉大なる聖霊のための祭壇です。できるだけ多くそこで集い、祈り、私が教えた歌を歌いなさい。そうしているうちに、この聖なる包みに含まれている7つの儀式について、理解も深まってゆくことでしょう。」
彼女は時計回りに回って、太陽が沈む方向に帰って行きました。丘の上で彼女は1度立ち止まって、振り返り、1回転して、1頭の美しく若い黒色のバッファローに姿を変えました。もう1回転すると、美しく若い赤色のバッファローに変わりました。3度目に回転すると美しい黄色のバッファローに変身し、4度目に回転して美しく若い白色のバッファローに変身しました。そして彼女は丘を越え、姿を消しました。
これが、彼女がプテサン・ウィンヤン-ホワイト・バッファロー・カーフ・ウーマン-と呼ばれるようになったいわれです。このようにして、私たちは儀式でこの黒、赤、黄、白の4色を使うようになったわけです。
※4色は、4つの人種を象徴していると考えられている((例)赤:アボリジニ)。
(中略)
(P29)
プテサン・ウィンヤンは、民のもとを去る前に言いました。
「私は生命の象徴であるこの聖なるチャヌパをあなた方に授けました。あなたたちは今からこの儀式と歌と共に、すべての生命とつながり平和、調和、幸せのなかに暮らします。
また、自分自身の聖なるチャヌパを作り、自分の包みを作ると良いでしょう。あなた方のチャヌパがそれぞれ良い形で作られ使われたなら、それはこの原初のチャヌパ、パイプの中のパイプとつながります。」
彼女はまた、彼女のスピリットは、いつの日か、私たちが大きな困難に直面した時に帰ってくること、そして我々にそれが分かる形で帰ってくると告げました。
(以上、引用部分)
1994年に部族の伝説に伝えられる白いバッファローが生まれた。彼らはこれを人類への警告と救済のしるしと捉(とら)え、WPPDを開催することを決定。
※WPPD:毎年6月21日の夏至の日に、各地の聖地で民族や宗教を越えてともに心を一つにして祈ることで、世界の平和を実現しようというイベント
WPPDは、1996年に米国ワイオミング州の聖地グレイホーン・ビュート(白人はデビルズ・タワーと呼ぶ巨岩)で初めて開催され、その後毎年北中米の聖地で開催された。
その後、2001年より母なる地球の4色の民を象徴する4大陸を巡っている。
2001年:アイルランド(白)
2002年:南アフリカ(黒)
2003年:オーストラリア(赤)
2004年:日本(黄)
2005年にウォピラ(感謝の儀式)を亀の島(アメリカ大陸)で開催(米国サウスダコタ州の聖地ブラックヒルズにて開催)。
2006年以降の開催地は、英語版HPを参照願いたい。
※現在WPPD日本語版のHPは削除されており、英語版のHPのみ閲覧可能(HPはこちら)
会場では、先住民の文化に触れることの出来るイベントが多数行われていた。
私は2日目に【せかいへいわといのりのウォーク】に参加している。
富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)を出発し、山宮浅間神社、人穴(富士講遺跡)を経由して朝霧高原まで20kmを超える道のりだった(白糸の滝は時間が足りずカット)。
イベントのボランティアスタッフ達が、(相当な覚悟を持って)断食をしてこのウォーキングに臨んでいたのを覚えている。
イベント3日目の夏至の日(6月21日)は大雨だった(全身びしょ濡れになった)。
それでも参加者達が手をつないで大きな輪をつくり、母なる地球に感謝し、平和への祈りを捧げてセレモニーは無事終了した。
私は3日目のイベント終了後帰宅したが、4日目の後片付け・清掃の際、会場に美しい虹がかかったということで、確か日本語版のHPに虹の写真がUPされていたと思う。
今回、記事をUPするにあたり、『ホワイト・バッファローの教え』を読み返し、久しぶりに【七世代先の子供たちのために】という考え方に触れた。
コロナ流行後、自分の身にいつ何があってもいいように断捨離を行ったが、それでも自分はまだ生き続けるだろうと安易な考え方をしており、いつか肉体の死を迎え魂だけの状態に還るということに対して、覚悟が足りないと感じた。
それはイコールこの地球を次世代の子孫達へ残すという意識が足りないということにつながっている。
全ては母なる地球からの借り物なのだということに今回改めて気付かされた。
(追記)
今回の記事を書くにあたり、久しぶりに昔よく聞いた曲( Sacred Spirit の" Yeha Noha ")をBGMとしてYOUTUBEで再生した。
1990年代後半にこの曲が流行った際、聞きながらイメージとしてよく浮かぶ光景があった。
それはネイティブ・アメリカンの男性が丘の上にあぐらをかきながら座り、遠くを見つめているというものだ。
この動画の登場人物は女性だが、私がイメージした光景に近いシーンがある(幾つもの動画がUPされているが、上記の理由でこの動画を紹介させて頂く)。
※" Yeha Noha "の動画はこちら
今手元には無いが、久しぶりにセージを焚きたくなった。
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西蔵編(28)カイラス山(前編)
タルチェン(大金)到着翌日、カイラス山巡礼に出発した。
この巡礼では、(苦しい時などネガティブな感情が湧き上がって来るのはある意味仕方ないことだが、)なるべくマイナスなことを考えずに平和への祈りを納めようと心がけていた。
日本を発つ前に参加したWPPD( World Peace & Prayer Day )(せかいへいわといのりの日)というイベントで【せかいへいわといのりのウォーク】に参加したのだが、ここでの体験が基(もと)にあったのだろう。このイベントのTシャツを着てコルラ(巡礼)した。
※WPPDのおまけ記事はこちら
2泊3日の予定で水と食料を携帯していた為、荷物はかなりの重量だった。
1日で1周する巡礼者もいるらしいが、私が出会ったチベタン(チベット人)は野宿しながら周っていた。
ラサ(拉薩)で2本購入しておいたトレッキングステッキが非常に役立った(チベタンの巡礼者に貸してくれとよくねだられた)。
しばらく歩くと、タルボチェ(タルチョ(祈りの旗)で飾られた高さ13mの柱)に辿り着いた。
チベット暦4月の満月の日には、ここで【サカダワ祭】(釈迦の生誕・悟り・入滅を祝う)が行われるそうだ。
その際、柱を倒してタルチョを付け替えるらしく、再び柱を立てた時の立ち方で吉凶を占うらしい(真っ直ぐに立てば吉、傾くと縁起が悪い)。
※タルチョの五つの色は物質の五元素【地・水・火・風・空】を表している。
重い荷物を運びながら高地を歩かねばならず、初日はかなりきつかったが、カン・リンポチェ(雪の尊者)(雪の活仏)(カイラス山のチベット語名)を見ると力が湧いてきた。
雪解け水が流れる川もあった(杖で測ったところ深さは60cm位だった)。
歩く距離を少なくする為に向こう岸に渡ることも考えたが、あまりにも急流で水温が低かった為断念した。
興味深い地層が見れたりもした(縦方向の地層、下記参照)。
インド亜大陸側から圧迫されることによってヒマラヤ山脈が形成されたそうだが、ここチベットは世界でも地震が多い地域として有名だ。
チベット仏教徒は時計回り(右回り)、ボン教徒は逆回り(左回り)で周ると聞いていたが、インドからの巡礼者達も逆回りでコルラしていた。
(写真は、インドからの巡礼者達の荷物を運ぶヤクの集団)
(写真は、チベタンの巡礼者達)
1日目は、カイラス山北側ディラ・プク・ゴンパ(13世紀に創建された、ドゥクパ・カギュ派の僧院)で宿泊した。
ここにも修行している僧侶達がいたのには驚いた。標高5000mを超える高地の為、夏でも朝に氷が張る厳寒の地だ。
※カギュ派はチベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ゲルク派、ニンマ派、サキャ派)で、宗教実践を重視し在家密教を主眼としている。
宗祖とされているのはナローパ(?~1040)、ナローパの弟子ティローパ(988~1069)とマルパ(1012~1097)、マルパの弟子ミラレパ(1052~1135)で、ミラレパの弟子ガムポパ(タクポ・ラジェ)(1079~1153)によって大成された。
密教への傾斜が強いカギュ派には様々な分派があるが、宗教詩人ミラレパがカギュ派全体のシンボルとなっている。
このうち、カルマ・カギュ派は転生活仏制度(転生ラマ)を創始しており、これは後にゲルク派(チベット仏教最大勢力)やその他の宗派にも採り入れられることとなった。
また、カギュ派はニンマ派、サキャ派と共に紅帽派・古派と呼ばれている(ゲルク派は黄帽派・新派・改革派と称される)。
※ドゥクパ・カギュ派は、チベット仏教カギュ派の支派の一つで、リンレーパ(1128~1188)の弟子のツァンパ・ギャレーパ(1161~1211)によって12世紀に開かれた。
(写真は、ディラ・プク・ゴンパから見たカイラス山)
※地図
(旅した時期:2004年)
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西蔵編(27)アリ~タルチェン
アリ(阿里)((ン)ガリ)からタルチェン(大金)(カイラス山麓の村)までのバスは2日後まで無かった。結果的に、ラサ(拉薩)からの移動の疲れを取ることが出来たと思う。
この街で最優先に行うべきこと、それは入境許可証(チベット辺境入境許可証)を取得することだった。
公安局外事処に出頭し、罰金300元と許可証代50元を払って許可証をもらった。
許可証に行き先を書いてもらうのだが、担当者がカイラス山を【神山】と書いた時には鳥肌が立った(残念ながらこの許可証は、パスポートに挟んでおいたところ中国出国時に取り上げられてしまった)。
この街は中国の軍事拠点用に作られた街である為、特に観光名所は無かった。
街を散策しているが、食堂やネットカフェ位しか立ち寄っていない。
アリに2泊した後、タルチェンに向かった。
正午に出発してタルチェンに着いたのは20時半だった為、8時間半かかっている。
カイラス山は、チベット語でカン・リンポチェ(雪の尊者)といい、釈迦牟尼の化身とされている。また、チベット仏教においては須弥山(しゅみせん)と同一視されている。
古名はカン・ティセ(魂の棲(す)む山)、中国語名は崗仁波斉峰(ガンレンボーチーフォン)、ヒンディー語名はカイラーシャー・パルヴァタ(カイラーシャーはサンスクリット語で水晶または楔(くさび)の座の意)。
標高は6656mで、宗教詩人ミラレパ(1052~1135)以外山頂に到達したものはいないとされている。
また、ヒンドゥー教、ジャイナ教、ボン教、そして仏教(チベット仏教)の最高の聖地で、遠方からの巡礼者が後を絶たない(現地でインドからの巡礼者の集団を見かけた(幌(ほろ)付きトラックで来訪)。
※ヒンドゥー教では、カイラス山はリンガ(シヴァ神を表す円柱形の像及び男性器を形どった像)の形をしていると見なされ、シヴァ神の住居及び世界の中心であると考えられている。
ここから南へ30kmにあるマパム・ユムツォ(マナサロワール湖、チベットの三大聖湖の一つ)と神聖な一対(ヤプユム)として崇(あが)められている。
チベットでは、一対の山湖を父母神として崇める信仰があり、ここではカン・リンポチェを父神、マパム・ユムツォを母神と神格化している。
※チベットの三大聖湖:ナムツォ、ヤムドク・ユムツォ(ヤムドク湖)、マパム・ユムツォで、ユムツォとは、「トルコ石の湖」の意。
※マパム・ユムツォはカイラス山からの雪解け水が流れ着き、ユーラシア大陸をその支流に置く四大河(インダス川・サトレジ川・ガンジス川・ヤルツォンポ川)の源流となっている。
ここにはマハトマ・ガンディー(ガンジー)(1869~1948)の遺灰も一部流されている。
この近郊には、他にもグゲ遺跡(グゲ王国(842~1630)の遺跡)等の見所が幾つかあるが、僻地(へき)にある為、行くのを諦めた(当時、ツアー参加又はヒッチハイクでしか行くことが出来なかった)。
西チベットには、カイラス山巡礼の為だけに行ったことになるが、それでも貴重な経験が出来て良かったと思う。
(写真は、タルチェンの村から見たカイラス山(中央の白い部分が山頂(南側)))
※地図
(旅した時期:2004年)
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