旅拝

過去の旅の記録です。

四国巡礼編(22)菩提の道場(5)浄瑠璃寺(46番札所)~石手寺(51番札所)

 【菩提(ぼだい)の道場(愛媛県)】



 [第46番札所:医王山 養珠院(ようしゅいん) 浄瑠璃寺(じょうるりじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)和銅元年(708年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:愛媛県松山市



 お遍路27日目。
 天気予報では大雨の予想だった為、早朝に宿を発った(雨が降る前に遍路道を通る三坂峠を越えたいという思惑があったのだが、結果的に遍路道に入る前に少し雨が降ったものの、松山市に入ってからは快晴だった)。

 三坂峠を歩いていると、これから訪れる松山の街並みを一望出来た。美しい景色を見て気持ちが昂(たかぶ)るのを感じる。

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 午前11時前に46番札所浄瑠璃寺に到着(昨晩の宿(民宿一里木)からここまで約14km)。
 
 浄瑠璃寺の寺伝によると、和銅元年(708年)に奈良の大仏開眼に先立って布教に訪れた行基が堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立。
 御本尊の薬師如来像と脇侍(きょうじ、わきじ)の日光菩薩月光菩薩、眷属の十二神将を彫って安置したとされる。
 浄瑠璃寺の寺名は薬師如来がおられる瑠璃光(るりこう)浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号の「医王寺」も医王如来に由来する。

薬師如来の正式名称は薬師瑠璃光如来で、医王如来とも呼ばれる。 

 その後、大同2年(807年)に弘法大師が荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺としたとされる。

 残念ながらこの日は参拝した寺院の数が多く、撮影した写真を見ても寺院のことをよく覚えていない。
 いつか機会があれば再訪・参拝したいと思う。



 [第47番札所:熊野山 妙見院 八坂寺]

・御本尊:阿弥陀如来
・創建年:(寺伝)大宝元年(701年)
・開基:(寺伝)役小角(えんのおづぬ(おづの、おつの))(役行者(えんのぎょうじゃ))、文武天皇(勅願)
・住所:愛媛県松山市



 この日は、札所間の距離が近い区間を歩いているが、その中でも46番札所から47番札所までは一番短く、僅か800m程の距離だ。
 残念ながらこの札所も当時のことを思い出せない。スタンプラリーのように先を急ぐ心境だったのだろう。

 八坂寺には午前11時半前に到着している。

 寺伝によると、八坂寺修験道の開祖である役行者によって開基されたと伝えられている。
 飛鳥時代大宝元年(701年)に文武天皇の勅願を受けた伊予の国司越智玉興(おちたまおき)が堂塔を建立した。寺名は、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことに因(ちな)んで名付けられたとされ、「彌榮(八坂)(いやさか)(ますます栄える)にも由来している。
 その後、弘仁6年(815年)にこの地で修法した弘法大師が荒廃した寺院を再興し、霊場と定めた。

 御本尊の阿弥陀如来坐像は、平安時代恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)(浄土教の論理的な基礎を築いたとされる僧侶)によって彫られた秘仏で、御開帳は50年に一度らしい(現在の御本尊は鎌倉時代後期の作)。

 八坂寺紀州から熊野権現の分霊や十二社権現勧進し、修験道の根本道場として栄えた。
 天正年間の兵火で焼失後、寺院は再興と火災を繰り返しながら縮小していったとされる。

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 [第48番札所:清滝山(せいりゅうざん) 安養院 西林寺]

・御本尊:十一面観世音菩薩
・創建年:(寺伝)天平13年(741年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:愛媛県松山市



 正確な場所は覚えていないが(48番札所~51番札所のあたりだろうか)、自分の体にある変化が起きていることに気付いた。
 今回の巡礼の旅で一番訪れたかった街松山に入るということもあり、昨日辺りから気分が高揚し、感動した時のように背中がビリビリしていたのだが、札所が近くなるとそのビリビリの度合いが増すのだ(札所巡りの後半に入った45番札所岩屋寺辺りから予兆があった)。
 その為、地図を確認しなくても札所の場所が分かるようになった。

 そのような変化が起きたことについて当時自分なりに理由を考えた。

(1)弘法大師土地の気の良い場所に寺院を建て、霊場と定めたのではないか

(2)今回四国を歩くうちに感覚・感度が鋭くなった為、自分も気の良い場所を感じることが出来るようになったのではないか

 (1)については、最近読んだ本(『土中環境』(高田宏臣著、建築資料研究社刊)に興味深い文章が書かれていたので引用させて頂く。



 日本では古来、清冽な水の湧き出す場所を、神域や聖地として敬い、守り伝えてきました。時代が下ると、その場所に社寺が配されるようになります。つまり、そこが周辺環境の要所であり、昔から尊重され続けてきた場所、これからも大切にしなければならない場所ゆえに、社寺が配されたのです。



 47番札所から48番札所までは5km弱の距離だ(午後13時前に到着)。

 西林寺の寺伝によれば、天平13年(741年)に聖武天皇の勅願を受けた行基伊予国司、越智玉純(おちたますみ)と共に堂宇を建立、御本尊の十一面観世音菩薩を刻んで開基した。
 当時の寺院は、現在地より北東約3kmに位置する「徳威の里」にあったとされる。

 大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れ今の場所に寺院を移し、水不足に悩む村人の為、水脈(杖(じょう)の淵の清水(奥の院)(番外霊場))を見つけたとされている。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。



 [第49番札所:西林山(さいりんざん) 三蔵院 浄土寺]

・御本尊:釈迦如来
・創建年:(寺伝)天平勝宝年間(749年~757年)
・開基:恵明(えみょう)
・住所:愛媛県松山市



 48番札所から49番札所までは約5km(午後14時過ぎに到着)。

 浄土寺の寺伝によると、天平勝宝年間に孝謙天皇の勅願を受けた恵明上人が開創し、行基が彫った釈迦如来像を御本尊として祀ったとされている。
 開創時は法相(ほっそう、ほうしゅう)だったが、後年弘法大師が伽藍を再興した際に真言宗に改宗している。
 その後、平安時代空也上人がこの地に3年間滞在した記録が残っている(本堂の厨子には空也上人像が安置されている)。
 鎌倉時代源頼朝により堂塔を修復されたが、応永23年(1416年)の兵火で焼失。
 文明14年(1482年)に領主、河野通宣(みちのぶ)によって再建された。

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 [第50番札所:東山(ひがしやま) 瑠璃光院(るりこういん) 繁多寺(はんたじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)天平勝宝年間(749年~757年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:愛媛県松山市



 49番札所から50番札所までも距離が短い(約2km)。繁多寺には午後15時前に到着した。

 繁多寺の寺伝によれば、天平勝宝年間に孝謙天皇の勅願を受けた行基薬師如来像を彫って安置したのが始まりとされる(孝謙天皇の勅願所となり、光明寺と名付けられた)。
 後に弘仁年間(810年~824年)に弘法大師がこの地を訪れた際、「東山繁多寺」に改称したという。
 後に源頼義により再興され、一遍上人もここで修行された記録が残っている。
 江戸時代には、徳川家の帰依(きえ)を受け隆盛を極めたそうだ。

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 [第51番札所:熊野山 虚空蔵院(こくぞういん) 石手寺(いしてじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)天平元年(729年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:愛媛県松山市



 50番札所から51番札所までも距離が短い(3km弱)。午後16時過ぎに石手寺に到着した。

 (写真は仁王門、内側には大きな草鞋(わらじ)が置かれていた。)

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 この日巡った札所の中で、石手寺は他の札所と雰囲気が違っていた(印象に残っている為当時のことを思い出すことが出来る)。
 この日これまで参拝した寺院の参拝者は、お遍路(の割合)が多かったのだが、ここ石手寺観光客が多かった。団体客も多かったがお遍路の服装では無かった為、松山の観光ツアー客と思われた。人気の高い寺院なのだろう(境内に現存する堂塔の多くが国宝国の重要文化財に指定されている)。



 石手寺の寺伝によると、神亀5年(728年)に伊予国司、越智玉純が夢によってこの地を霊地と感得し熊野12社権現を祀り、鎮護国家の道場として聖武天皇の勅願所となった。
 翌年(天平元年(729年))に行基薬師如来像を彫り、御本尊として祀った。当時の宗派は法相宗で寺院名は「安養寺」と名付けられた。
 弘仁4年(813年)に弘法大師がこの地を訪れた際、真言宗に改めたと伝えられている。

 石手寺の名前の由来は、衛門(えもん)三郎再来の伝説による(以下、概要)。



 伊予国を治めていた河野氏の一族に衛門三郎という欲深い豪農がいた。
 ある時三郎の前にみすぼらしい姿の托鉢(たくはつ)僧が毎日現れたが都度追い返したという。8日目には怒って僧が捧げていた鉢を箒(ほうき)で叩き落したところ、鉢は八つに砕けて割れた。以後托鉢僧は姿を現さなくなった。

 当時三郎には8人の子供がいたが、この出来事の後毎年一人ずつ全ての子供が亡くなってしまう。悲しみにくれた三郎の夢枕に弘法大師が現れ、再会した時に罪を許すことを伝え四国の地を巡礼するよう告げた。三郎はあの托鉢僧が大師だったことに気付き、自分の行為を後悔した。

 悔い改めた三郎は、田畑を売り払い家人に分け与え、妻とも別れた後、謝罪の旅に出た(この旅が四国遍路の始まり、この時の装束が遍路装束の起源と言われている)。

 巡礼を重ねること20回にして大師に会うこと叶わず。三郎21回目の巡礼時、逆打ちに一縷(いちる)の望みに賭けたが、12番札所焼山寺(しょうざんじ)近くの杖杉(じょうしん)で病に倒れてしまう。

 死期の近い三郎の前に大師が現れ、三郎は大師に泣いてお詫びをしたとされる。
 大師が三郎の望みを叶えることを約束すると、三郎は河野家に再び生まれて人の役に立つことを願いながら亡くなった。
 大師は小石を拾って「衛門三郎」と書き、三郎の手に握らせた。

 翌年(天長9年(832年))に河野息利(やすとし)(越智玉純の子孫)の嫡子息方(やすかた)が生まれた。当寺で祈願するまで開かなかったその手には、衛門三郎の名を書いた小石が握られていたという。
 この子が衛門三郎の生まれ変わりであるということで、この石を当寺に納め、寺号を安養寺から石手寺に改めたとされる。



 石手寺を打ち終えた後、この日の宿松山ユースホステルに到着。
 ここは、関西地区のユースホステル人気投票で何度も一位を獲得したという有名な宿だった。
 オーナーの平野さん(大統領と呼ばれていた)は、宿泊者を喜ばそうと日夜試行錯誤されているようだった。
 例を挙げると、岩盤浴のサービス、水を活性化する装置、空間の波動を上げる工夫、壁にはマイナスイオンが出る塗料まで塗ってあった(おかげで次の日の朝起きれない位爆睡して、出発が1日延びた)。

 平野さんは色々と人生経験が豊富な方と思われた為、夕食後にこの日の体験(札所が近付くと背中がビリビリすること)を伝えた。自分の身に何が起きていたのか知りたかったのだと思う。
 
 平野さんの見解は、「それは、三昧(ざんまい、サマディ)でしょう」ということだった。
 修行としてシンプルな作業を続けていると到達する境地であるらしい。ランナーズ・ハイもこの一種だそうだ。

 何故そのような状態になったのか。きっかけとして当時考えられたのは、松山に到着して気持ちが高揚したことだろうか。
 或いは、45番札所手前の古岩屋休憩所で出会った男性から託された想いがあったからかもしれない。

 だが、あれから15年経過した今、原因が別にあった可能性も考えられる。
 その後の人生経験からの見解については、次の記事で書き記してみたいと思う(あくまで個人的な意見でしかないが)。

※おまけ記事はこちら





(旅した時期:2006年)

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