四国巡礼編(9)修行の道場(1)最御崎寺(24番札所)~金剛頂寺(26番札所)
【修行の道場(高知県)】
お遍路9日目の朝、目覚めると、両足の裏に複数のマメが出来ていた。
昨日から足の裏に違和感を感じていたが、ついに出来たかという感じだ。
マメの原因は幾つか考えられる。
(1)歩行距離の延長
今までは歩いても30km程だったが、昨日は40km近く歩いてしまった。
札所では重いリュックを置いて身軽になれる時間が取れるのだが、昨日は札所が無かった為、歩く距離に対して休憩の回数が少なかった可能性も考えられる。
(2)足のケア不足
日没後まで歩いて疲れ切った状態で野宿した為、昨晩寝る前にきちんと足のケアをしなかった。
(3)認識の甘さ
以前会ったベテラン遍路より、「マメが出来ないよう気を付けるように」と言われていたが、マメが出来たとしても何とかなるだろうと甘く見ていた。
今までの人生でも足の裏にマメが出来たことがあったが、その時は大きな問題にはならなかったということで、気楽に考えていた可能性が考えられる。
この記事を書くにあたりネットで調べたところ、足の裏にマメが出来た場合の治療キットが豊富に見つかった。私が歩いた当時もあったのかもしれないが、そういった便利なグッズがあることを知らなかったと思う。
※当時の治療方法:針でマメに穴を開け溜まった水を抜き、その後気休め程度に傷薬を患部に塗り、絆創膏(ばんそうこう)を貼って終了。
両足に複数のマメが出来ていたが、(左右どちらか忘れたが)大きいマメがある方の足は、地面と接触する際に痛みが走った。
その為痛む足を引きずるような歩き方になるのだが、足への負荷を減らすべく金剛杖で踏ん張りながら歩くことにした。
(写真は早朝出会った野生の猿)
この日は、下記の番外霊場に立ち寄ったり、その付近を通過している。
※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。
・佛海庵(仏海庵)(御本尊:地蔵菩薩)
江戸時代、仏海上人(木食(もくじき)仏海)により建立された庵。仏海上人は、遍路の難所と言われたこの地に歩き遍路の接待と救済を目的として庵を建てた(宝暦10年(1760年))。
当時は月に6000人~9000人位の歩き遍路がいたらしく、ここは彼らにとっての救いの宿となっていたらしい。
仏海上人は庵のそばに宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建て、明和6年(1769年)に塔の下で即身成仏した。
・(鹿岡(かぶか)の)夫婦岩(みょうといわ)
夫婦岩(めおといわ)(みょうといわ)と呼ばれる岩は日本各地にあるが、その中でも大きい部類に入ると思われる。
大晦日の晩に夫婦岩の間鵜(う)の碆(はえ)に「竜燈」が灯(とも)ることがあったらしく、この神火を地元では「かじょうさま」と呼んだらしい。その火は新年を迎える為の浄火となったという言い伝えが残っている。
※竜燈(龍燈):龍神の灯す火と言われ神聖視されている、日本各地に伝わる怪火現象。
主に龍神の住処と言われる海や河川の淵から出現し、水上に浮かんだ後に火が連なったり、付近の木等に留まるとされる。
・室戸青年大師像
高さ21m(台座部分5mを含む)。昭和59年(1984年)に建立された。立ち寄ってはいないが、大きな像の為国道55号を歩いているとその存在に気付く。
かつて弘法大師もこの地を歩いたということが、お遍路をする者に大きな力をくれる。
余談になるが、お遍路はその偉大な先人のことを、親しみを込めて「お大師さま」「お大師さん」と呼ぶ。
身に付けた白衣(はくえ、びゃくえ)や菅笠(すげかさ)や手に持つ金剛杖には「同行二人(どうぎょうににん)」と書かれている。「同行二人」という言葉の意味、それは「あなた一人ではなく、お大師さまもあなたと共に歩いていますよ」ということだ。
道中幾度となく、その言葉の意味を噛みしめながら歩いた。
・御厨人窟(御蔵洞)(みくろど)と神明窟(しんめいくつ)
(下記写真の左側が御厨人窟、右側が神明窟)
御厨人窟と神明窟は、波による侵食により形成された海蝕洞(海食洞)(かいしょくどう)で、御厨人窟には五所神社があり、神明窟には神明宮がある。
洞窟内部で聞こえる波の音は、「室戸岬・御厨人窟の波音」として日本の音風景100選に選定されている。
参拝当時は内部を見学できたが、その後海蝕の進行による落石が頻繁化したらしく、洞窟内部への立入りが禁止されたらしい(現在の状況は不明)。
弘法大師の著作『三教指帰(さんごうし(い)き)』には、「阿国太龍嶽(太竜寺山と考えられている)にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し仏法の無二を現す」と書かれており、神明窟での修行中に明星が口に飛び込み、弘法大師が悟りを開いたと伝えられている。
当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあったらしく、洞窟の中で目にした風景は空と海だけだったことから、青年佐伯真魚(さえきのまお)は「空海」と名乗ったと伝わっている。
洞窟内部はビリビリとした霊気に満ちており、当時その場にいたお遍路や観光客は皆口を揃(そろ)えて「ここはすごい」と感想を述べていた。
この日の午後、痛む足を庇(かば)いながら歩いたことにより、支えていた方の足の関節や腰にも痛みが発生。足への負荷を減らすべく金剛杖で踏ん張っていた為、両腕の筋肉はパンパンになっていた。
特に厄介だったのは足腰の関節痛だ。他の痛みは何とか耐えられそうだったが、この状態が続くと本当に歩けなくなると感じた。自分の通常体重+荷物の重さ15kg分が増量されている状態でマメが出来た場合は、きちんと処置をしなくてはならないことを痛感した。
何故病院に行って医者に診てもらわなかったのか、恐らく歩くのを止めて安静にするようにと言われるのが怖かったのだろう。
日が暮れてから観音窟(最御崎寺(ほつみさきじ)の奥の院)(番外霊場)前のパーキングに到着。既にバイカーや車で旅をしている人達が野宿の準備をしており、自分もここでテント泊をすることにした。
[第24番札所:室戸山(むろとざん) 明星院(みょうじょういん) 最御崎寺]
・御本尊:虚空蔵菩薩(秘仏)
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海・嵯峨天皇(勅願)
・住所:高知県室戸市
※別称:東寺(ひがしでら)(室戸岬では東西に対峙している最御崎寺が「東寺」、26番札所金剛頂寺が「西寺」(にしでら)と呼ばれている)
お遍路10日目、朝一番に最御崎寺へと向かった。雰囲気の良いお寺だ。
(写真は山門(仁王門))
23番薬王寺から24番最御崎寺までは約76km。88ヶ所霊場の札所間距離で最長かと思ったが、実際は2番目に長い距離らしい(最長距離は37番岩本寺~38番金剛福寺(約81km))。
室戸の地で修行し虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を成就した弘法大師は、唐から帰国後に嵯峨天皇の勅命を受け再びこの地を訪れ、彫った虚空蔵菩薩像を御本尊として本堂を建立したと伝えられている。
[第25番札所:宝珠山(ほうしゅざん) 真言院 津照寺(しんしょうじ)]
・御本尊:(楫取(かじとり)(延命))地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県室戸市
※別称:津寺(つでら)(『今昔物語集』に室戸の「津」という地名及び「津寺」という名称が登場する)
最御崎寺参拝後、室戸岬灯台に立ち寄ってからおよそ7km弱の道のりを2時間半かけて歩いた。通常であれば2時間かからないと思うが、足を庇いながら頑張って歩いたと思われる。
(写真は鐘楼門に続く階段)
津照寺の寺伝によると、大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れた際、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ていることからこの地が霊地であると感得され、延命地蔵菩薩を刻み堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し開創したとされる。
御本尊の「かじとり」地蔵については、幾つか由来がある。
(1)火事取り地蔵(『今昔物語集』より):本堂が火災にあった際、僧の姿になった御本尊地蔵菩薩がその旨を村人に知らせ、火難を逃れた。
(2)楫取地蔵(『旧記南路史』より):慶長7年(1602年)に土佐藩主山内一豊が室戸沖で暴風雨に遭った際、突如僧侶が現れ船の楫(かじ)を取り無事に室津の港に入港した。
その僧侶の正体が津寺(津照寺)の御本尊地蔵菩薩であるということが分かり、以降御本尊を楫取地蔵と呼ぶようにになった。
[第26番札所:龍頭山(りゅうずざん) 光明院 金剛頂寺(こんごうちょうじ)]
・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海・平城天皇(勅願)
・住所:高知県室戸市
※別称:西寺(室戸岬では東西に対峙している最御崎寺が「東寺」、26番札所金剛頂寺が「西寺」と呼ばれている)
津照寺から金剛頂寺まで約4kmだが、到着までに2時間かかっている。段々と歩くペースが落ちているが、痛む足で何とか歩いていたのだろう。
金剛頂寺は、弘法大師にとって最初の勅願寺の創建(大同2年(807年)に開創)だったらしい。平城天皇の勅願により、御本尊の薬師如来を彫って納めたそうだ。
創建時は「金剛定寺」と呼ばれていたが、次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改めたという。
(写真は、山門(仁王門)に奉納された大草鞋(わらじ))
金剛頂寺参拝後再び国道55号に出て、道の駅キラメッセ室戸に立ち寄った。
そこにはカップルや家族連れ等多くの観光客がいて、とても楽しそうな雰囲気が伝わってきた。足を痛めて暗い表情の自分とは雲泥の差だ。
その暗い雰囲気のせいか、私のことを見かけた人から声をかけられることはなかった。
周囲とのギャップを自分で感じていた為か、お店には入らなかったと思う。トイレを利用し自販機でジュースを購入して飲み終えた後、そそくさと立ち去った。
さすがに今晩はきちんとした宿に泊まって足のケアをする必要があると感じた為、民宿に電話をした。
この日宿泊したのは、室戸市吉良川(きらがわ)町にある民宿ホワードだ(素泊まり3800円)(残念ながら、その後廃業されたようだ)。
吉良川町はかつて木材や薪、炭の産地として栄えたらしく、その街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。ちょっとした城下町のような雰囲気だった。
徳島ではほとんど電話していなかったが、携帯電話の充電が出来るということもあり、この日は友人達に電話をかけている。心細かったのだろう。
(旅した時期:2006年)
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