旅拝

過去の旅の記録です。

西蔵編(34)ダム~バラビセ~カトマンドゥ

 ダム(樟木)(ネパール語でカサ( Khasa ))の街で1泊後、徒歩で中国側のイミグレ(イミグレーション・オフィス)に向かった。
 残念なことに、ここでチベット入境許可証を回収されてしまった。アリ(阿里)地区の入境許可証には行き先の欄に【神山】(カイラスの意)と書かれており、記念に残したかったのだが交渉しても断られた(パスポートに挟んでおいたのが失敗だった)。

 中国側のイミグレのあるダム(標高2350m)から、ネパール側のイミグレのあるコダリ( Kodari )(標高2300m)までは、曲がりくねった車道を通ると約10km、ポーターの通る山道は約3kmある。
 この間、タクシーかヒッチハイクで移動するのが一般的らしい。今回もヒッチハイクをすることにした。



 イミグレの先で声を掛ける車を待っていると、最初に来たのはトラックだった。
 どこか見覚えがあると思ったら、なんとそれは昨日までお世話になったトラックで、チベタン(チベット人)2人(名前はツドアオジ)が座席で笑っていた。戦友との再会だ。
 別に待ち合わせしていた訳ではないのだが、縁とは不思議なものだと思う。

 トラックに乗り込むと、昨日までと同様にゆっくりと走り出した。走り出してからこのトラックがノロノロ運転で走ることを思い出し、「しまった」と思ったがこれも縁だ。

 後続の車に次々と抜かれ、1時間かかってようやくコダリに着いた。
 お金を払おうとしたが、彼らは受け取らなかった。代わりに飛びっきりの笑顔でお礼を言って彼らと別れた。



 コダリはイミグレと数件の雑貨屋・食堂があるだけの小さな街だった。
 イミグレでネパールビザ(シングル、$30)を取得し、当座のお金を両替した後、バラビセ( Ba(h)rabise )行きのバスへ乗り込んだ。

 コダリからバラビセ経由でカトマンドゥ(カトマンズ)( Kathmandu )まで、およそ150kmの道のりだ。
 バラビセまでは20km程の道のりだが、検問が2回あった為、到着まで2時間半かかっている。
 検問は徹底していて、乗客は全員降ろされてチェックを受けるというものだった。その為1回の検問に非常に時間がかかっていた。

 この検問は、政府がマオイスト(毛沢東主義派)の活動を厳しく取り締まっていたものだった。
 当時爆弾テロがあったのはニュースで知っていたが、バスの中には武装警官が待機しており緊張感を肌で感じた。



 ちなみに2008年、独裁的なギャネンドラ国王が退位して王制が廃止されている。
 反国王運動の中心になったのがネパール共産党毛沢東主義派達で、毛派のプシュパ・カマル・ダハル(通称プラチャンダ)首相が連立政権の実権を握った。
 現在の首相は、ドガ・プラサード・シャルマ・オリ氏(ネパール共産党)。

ネパール共産党は、かつて毛沢東主義派マルクス・レーニン主義に分かれていたが、2018年に合併している。

 ネパールは近年、インドの影響から離れて中国との関係を強化し始め、チベット難民への政策も変化しつつあるようだ。



 (2015年、ネパール大地震震源地の近くだったバラビセの街は、壊滅的な打撃を受けた(亡くなられた方々のご冥福をお祈りします))



 バラビセでカトマンドゥ行きのバスに乗り換える予定だったが、バスの便があったとしてもこの調子では今日中に辿(たど)り着けるか分からない。
 そこで、ここでもヒッチハイクをすることにした。

 運良く車はすぐに見つかった。カトマンドゥまで1台1000ルピー(当時のレートで1500円強)とのこと。他の旅人を誘って乗り込んだ。



 道中の検問は6回あったが、無事カトマンドゥに着いた。
 車は時速100km位で走っていた。乗り心地も良く、昨日のトラックとは雲泥の違いだった(しかしトラックでの体験の方が貴重に思える)。

 通常コダリからカトマンドゥまで5、6時間かかるらしいが、検問の遅れを十分取り戻して予定より早く着いた形になった。

 7年振りに見たカトマンドゥの街は大きく様変わりして豊かになっていた。
 この日は旅行者が集まるタメル地区にある、HOTEL PUSKARに宿泊した。



※地図





(旅した時期:2004年)

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