旅拝

過去の旅の記録です。

四国巡礼編(15)修行の道場(7)岩本寺(37番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第37番札所:藤井山(ふじいざん) 五智院(ごちいん) 岩本寺(いわもとじ)]

・御本尊:不動明王(聖(しょう))観世音菩薩阿弥陀如来薬師如来地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)天平年間(729年~749年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:高知県高岡郡四万十(しまんと)町



 お遍路16日目。道の駅かわうその里すさきで目覚めると、午前3時半だった。眠ってからおよそ3時間で目覚めたことになる。寝不足ではあるが、自分の心に巣食う甘えの部分を削(そ)ぎ落して本当の自分に近づいていく感覚があった。
 昨日のこともある為二度寝はせず、テントを畳んで出発することにした。



 雨が降りそうな天気だった為、先を急ぐ。
 しばらく歩き、午前8時半に七子峠(ななことうげ)への分岐に到着(道の駅かわうその里すさきから約17km)。
 ここで国道56号から外れ遍路道(山道)を選択したが、昨日の雨の影響でぬかるんでおり、国道を歩けば良かったと後悔した。

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 アスファルトに比べ足に優しいので遍路道が好きというお遍路もいたが、基本的には舗装された道を選んだ方が無難だと思う(特に雨天時)。
 但し、近道として選択したり道幅の狭いトンネルを避ける場合等、積極的に遍路道を通った方が良いと思われるケースもある。



 この後疲労と睡眠不足のせいか、歩くペースが落ちている。休憩中にベンチで寝てしまうこともあった。



 予定より大幅に遅れて、午後15時半頃37番札所岩本寺に到着(七子峠から約13km)。

 寺伝によると、天平年間(729年~749年)に聖武天皇の勅命を受けた行基が、七難即滅・七福即生を祈念して現在地より北西約2㎞付近に鎮座する仁井田明神の傍に建立したと伝えられる、福円(圓)満寺が前身とされている。
 末寺七ヶ寺を持つ福円満寺は、仁井田明神の別当であったことから、「仁井田寺」「仁井田七福」「七福寺」等と呼ばれていた。

※神宮寺(別当寺):神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神社の管理権を掌握する場合は別当寺と呼ばれる。

 その後、弘仁年間(810年~824年)に弘法大師がこの地を訪れ、福円満寺を増築。建立した五つの社に仁井田明神の御神体をそれぞれ祀った。

※各社に不動明王(東大宮)、(清浄)観音菩薩(今大神)阿弥陀如来(中宮)薬師如来(西大宮)、(将軍)地蔵菩薩(聖宮)本地仏として安置した。

 このことから、福円満寺等は七ヶ寺と合わせて「十二福寺」、また仁井田明神は「仁井田五社」(現在の名称は高岡神社)と呼ばれ(総称:「仁井田五社十二福寺」)、嵯峨天皇の勅願所となり栄えた(別当寺の福円満寺が札所となった)。

 それに対し、岩本寺は元々町中にあり福円満寺から足摺(あしずり)へ向かう途中の宿坊(名称「岩本坊」)だった。
 1652年~1688年の間に衰退した福円満寺から別当が移り札所となった(岩本寺と改称)。
 明治時代の神仏分離令により仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一された。
 廃仏毀釈によって寺領地の大半を失い仏像と札所権が八幡浜吉蔵寺(きちぞうじ)に移ったが、明治22年(1889年)に復興して仏像と札所権を取り戻した。

 岩本寺は、本堂の(ごう)天井画が有名。画家や一般市民の描いた575枚の天井絵が飾られている。

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 岩本寺で、一人の歩き遍路と再会している。この方は、善根宿:栄タクシーのご主人に絶賛された顔相の持ち主だ。
 
 この後、一緒に土佐佐賀温泉こぶしのさとまで歩いた(岩本寺から約13km)。
 道中、「今を大切に」というお言葉を頂いた。考えすぎると「今」を見失うとのこと。
 亡くなられたご家族の供養の為に歩かれている方からの一言ということもあり、言葉に重みがあった。

 お金を持たずにお遍路をされていた為、温泉の入浴料と食事代(夕食と翌朝の朝食)をお接待した。この方にお接待出来ることがとても光栄なことに思えた。カイラス山で出会った五体投地巡礼者にチョコレートを渡した時と同じような気持ちだ。

 この日は、佐賀温泉前に建てられた遍路小屋にて野宿をした。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(14)修行の道場(6)青龍寺(36番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第36番札所:独鈷山(どっこざん) 伊舎那院(いしゃないん) 青龍寺(しょうりゅうじ)]

・御本尊:波切不動明王
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県土佐市

※別称:波切不動



 お遍路15日目。目覚めると午前11時だった。寝坊してしまったようだ。
 原因としては、前日宿泊したネットカフェで睡眠不足だったこと、昨日の夕方から雨が降り続いていたこと等が考えられる。朝には強い雨に変わっていた為雨が止んでからテントを畳もうと判断したまでは良かったものの、二度寝した際雨の音が心地よかったのか深い眠りについてしまったようだ。

 目覚めた時には小雨(こさめ)になっており、周囲に清浄な気が満ちているのを感じた。
 寝坊したがこれで良かったと思うことにして、先に進んだ。



 歩き始めてしばらくすると、地元の方よりお接待をして頂いた(雨で濡れていた為かタオルと食料を頂いた)。
 記事には記載していないが、高知県に入ってからもお接待して頂く機会に恵まれていたと思う。遍路小屋を利用出来るのも、地元の方々の善意の御蔭(御陰)(おかげ)であり、それこそ「頑張ってね」と声をかけて頂くことも含めれば、数えきれない位のお接待を受けていると思う。
 徳島と比べて高知の人は冷たいと言う遍路もいたが、決してそんなことはない。

 (写真は、道中の景色(土佐湾))

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 青龍寺には、午後15時半頃に到着した。

 以下、青龍寺の寺伝より。
 唐に渡って真言密教について学んだ弘法大師が、帰国の際に有縁の地に至るように祈願して独鈷杵(どっこしょ)を東方に向かって投げた。
 帰国後、独鈷杵は現在の奥の院(独鈷山不動堂)(番外霊場)の山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上した。
 大師は弘仁6年(815年)、師である恵果和尚を偲(しの)んで唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。
 大師の乗った遣唐使船が暴風雨に遭った際に不動明王が現れ、剣で波を切って船を救ったことから、大師が御本尊の波切不動明王像を彫って祀(まつ)ったと言われている。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。



 36番札所青龍寺から37番札所岩本寺までは二つのルート(選択肢)がある。

高知県道23号須崎仁ノ(すさきにの)国道56号
高知県道47号横浪(よこなみ)公園線(横浪黒潮ライン)(横浪スカイライン)(終点で県道23号線に合流)~国道56号

 距離的に短いのは県道47号線経由だが道中に商店が無いように思えた為、一旦宇佐(高知県土佐市宇佐町)の街に戻り、食料を調達してから県道23号線を進むことにした。



 出発時刻が遅かったこともあり、この日は日没後も歩き続けた。ヘッドライトを装着して先に進む。
 今日はもう歩くのを止めようという気持ちもあったが、自分を鼓舞しながら歩いた。

 須崎(高知県須崎市)の市街地に到着したのは午後23時過ぎだった。
 コインランドリーを見付けた為衣類を洗濯することにしたのだが、衣類の乾燥中に突然消灯され室内が真っ暗になった。どうやら24時間営業ではないらしい。ヘッドライトの灯(あか)りを頼りに乾燥機から衣類を取り出して立ち去った。

 少し歩いて道の駅かわうその里すさきに到着。
 鴨島温泉鴨の湯に併設された善根宿で出会ったベテラン遍路より、ここで野宿が出来ると聞いていた(現在の状況は不明)。
 その言葉を信じることにしたのだが、お店(道の駅)の敷地内で野宿するのが初めてということもあり落ち着かなかった為、早朝未明に立ち去ることにした。

 この日は無謀にも日付が変わるまで歩いているが、高知に入り札所間の距離が長くなったことで、次の札所までひたすら歩くことも可能になった。その為、一日の歩行距離が長くなっている(一日40km以上歩くことも多くなった)。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(13)修行の道場(5)竹林寺(31番札所)~清瀧寺(35番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第31番札所:五台山 金色院(こんじきいん) 竹林寺]

・御本尊:文殊(もんじゅ)菩薩
・創建年:(寺伝)神亀元年(724年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:高知県高知市

※88ヶ所霊場の中で唯一文殊菩薩像を御本尊とする。



 お遍路14日目。
 昨晩ネットカフェのブース席で睡眠を取ったが、周囲の物音で熟睡出来ず明け方に出発。竹林寺に到着したのは午前6時半過ぎだった。
 早朝ということもあり、寺院の空気が清々しい。この日一番目の納経者となった。

 以下、竹林寺の寺伝より。
 神亀元年(724年)に聖武天皇が唐(中国)の五台山(文殊菩薩の聖地)で文殊菩薩に拝する霊夢を見た。
 五台山に似た山を見つけ出すという天皇の命を受けた行基が、この地が霊地であると感得し栴檀(センダン)の木に文殊菩薩像を刻み、山上に本堂を建てて安置した。
 その後、大同年間(806年~810年)に弘法大師がこの地で修行した際、荒廃した堂塔を修復したと伝えられている。

竹林寺文殊菩薩は、安倍文殊切戸(きれど)文殊とともに日本三文殊の一つに数えられる。

※日本三文殊安倍文殊院(安倍文殊)(奈良県桜井市)、智恩寺(ちおんじ)(切戸文殊)(京都府宮津市)、大聖寺(だいしょうじ)(亀岡文殊)(山形県置賜(ひがしおきたま)郡高畠(たかはた)町)。竹林寺のように亀岡文殊に代わって日本三文殊を称する寺社も存在する。

 (写真は、本堂(文殊堂))

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 竹林寺御朱印を頂いた後、境内を散策している。緑が多く、歩いているだけで癒された。

 (写真は、五重塔)

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 [第32番札所:八葉山(はちようざん) 求聞持院(ぐもんじいん) 禅師峰寺(ぜんじぶじ)]

・御本尊:十一面観世音菩薩
・創建年:(寺伝)神亀年間(724年~729年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:高知県南国(なんこく)市

※別称:峰寺(みね(ん)じ、みねでら)



 31番竹林寺から32番禅師峰寺までは約6km。寺院に到着したのは午前9時頃だった。

 禅師峰寺は海に近い峰山(標高82m)の山頂にあり、地元では「みね(ん)じ」「みねでら」と呼ばれている。
 聖武天皇の勅命を受けた行基が、土佐沖を航行する船の海上安全を祈願して堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建てたのが起源とされている。
 その後弘法大師が訪れた際この地を霊地と感得し、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の護摩を修法され、十一面観世音菩薩を彫られて御本尊として祀(まつ)ったとされる。
 御本尊は「船魂(ふなだま)観音」と呼ばれ、漁師だけでなく土佐藩歴代藩主の信仰を受けた。

※虚空蔵求聞持法:真言百万遍唱える難行とされる修法で、達成した者は無限の記憶力が与えられるとされている。



 ここで、ドライブイン27で会った区切り打ちの遍路に再会している(この方とはこの日を最後に再会していないが、結願後に御礼の手紙を書いた)。

 当時を振り返ると、私の体調が万全でない時にいろいろとサポートして頂いたと思う(改めて感謝したい)。
 この方にとってみれば、怪我が治ったと思ったら断食を始めて勝手に苦しんでいたりと、私のことを随分と騒がしい奴だと思われていたかもしれない(そういったことは一切態度に出さない紳士的な方だったが)。



 [第33番札所:高福山 高福院 雪蹊寺(せっけいじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)(嘉禄元年(1225年)という説も有)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県高知市

※宗派:臨済宗(88ヶ所霊場臨済宗寺院は雪蹊寺11番札所藤井寺(ふじいでら)のみ)



 33番札所雪蹊寺への道中、区切り打ち遍路と別れて寄り道をしている。
 立ち寄ったのは桂浜(かつらはま)だ(禅師峰寺から7km弱)。桂浜に立つ坂本龍馬を見たかったというのが訪問の理由だった。

 桂浜に着くと、そこには想像以上に大きな坂本龍馬像が立っていた。銅像としては日本一の高さを誇るそうだ(像の部分は5.3mで台座部分を含むと13.5m)。
 もし坂本龍馬と話が出来るならば、弘法大師についてどう思うか聞いてみたいところだ。

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 桂浜から雪蹊寺までは約3km。お昼過ぎに到着した。

 雪蹊寺弘法大師の開基と言われ、創建当初は「少林山高福寺」と称したとされている(他には、嘉禄元年(1225年)に右近将監定光が高福寺を創建したとする記述がある(土佐国編年紀事略』)。
 鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶(たんけい)がこの地を訪れた際、寺名を「慶運寺」と改めたとされている。

 ※運慶の作品:薬師如来像(御本尊)、日光・月光菩薩(脇侍)
 ※湛慶の作品:毘沙門天吉祥天女善膩師童子(ぜんにしどうじ)像

 その後廃寺となった時期もあったが、天正年間(1573年~1593年)後期に土佐藩長宗我部元親が自身の宗派である臨済宗から月峰和尚を招き、慶運寺を再興した。
 元親の死後長宗我部家の菩提寺となり、寺名を元親の法名「雪蹊恕三大禅定門(せつけいにょさんたいぜんしょうもん)に因(ちな)んで「雪蹊寺」と改称した。
 江戸時代には「南学(朱子学南学派)発祥の道場」と呼ばれ、谷時中野中兼山等の優れた儒学者を数多く輩出している。
 明治時代の神仏分離令により明治3年(1870年)に廃寺となった際、納経は31番札所竹林寺にて「高福寺」の名で行われた。
 明治12年(1879年)に大玄和尚により寺院は復興した。

 雪蹊寺について旅日記に書き記しているのは、納経所で会った90歳の女性について。
 御朱印を押印して下さった方のことと思われるが、この年齢になっても働かれている姿に頭が下がる思いだった。



 [第34番札所:本尾山(もとおざん) 朱雀院(しゅじゃくいん) 種間寺(たねまじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)弘仁年間(810年~824年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県高知市



 33番札所雪蹊寺から34番種間寺までは約7km。午後14時過ぎに到着した。

 寺伝によると用明天皇在位(585年~587年)の頃、四天王寺(大阪市天王寺区)を建立するため来日した百済の仏師・造寺工達が帰国する際、土佐沖で強烈な暴風雨に襲われて、種間寺が建つ本尾山に近い秋山の港に漂着した。
 彼らは、航海の安全を祈願して薬師如来像を彫り、本尾山の山頂に祀った。これが寺院の起源とされている。
 その後、弘仁年間(810年~824年)に唐から帰朝した弘法大師がその薬師如来像を御本尊として安置し、諸堂を建てて開基された。その際に唐から持ち帰った五穀(稲(米)、麦、粟(あわ)、黍(きび)、豆または稗(ひえ))の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。

※国宝である御本尊の薬師如来像は「安産の薬師さん」と呼ばれ、信仰されている。

 明治時代の神仏分離令で一時廃寺となったが、明治13年(1880年)に再興された。



 [第35番札所:醫王山(いおうざん) 鏡池(きょうちいん) 清瀧寺(きよたきじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)養老7年(723年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:高知県土佐市



 34番種間寺から約10km歩き、35番清瀧寺には午後16時半過ぎに到着した。

 寺伝によると、養老7年(723年)に行基がこの地で霊気を感得して御本尊薬師如来像を彫り、寺院を建て「影山密院(けいさんみついん) 釋木寺(たくもくじ)(※「釋本寺」と記載されている資料も有)と名付けて開山したのが初めと伝えられている。
 その後、弘仁年間(810年~824年)に弘法大師がこの地を訪れ、本堂から300m程上った岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して7日間の修法を行った。満願の日に金剛杖で壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池が出来たことから醫王山鏡池院清瀧寺と寺名を改めたという。
 明治時代の神仏分離令により明治4年(1871)に廃寺となったが、明治13年(1880年)に再興された。

 (写真は、厄除け薬師如来と本堂)

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 清瀧寺を打った後、36番札所青龍寺(しょうりゅうじ)へ向かってしばらく歩き、道中にあった遍路小屋の脇にテントを張って野宿した。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(12)修行の道場(4)国分寺(29番札所)~善楽寺(30番札所)

 早いもので東日本大震災から10年が過ぎました。
 亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
 
 防災意識を持って生活したいと思います。



 それでは以下、本編(四国巡礼編)です。



 【修行の道場(高知県)】



 [第29番札所:摩尼山(まにざん) 宝蔵院 国分寺]

・御本尊:千手観世音菩薩
・創建年:天平勝宝8年(756年)以前
・開基:行基
・住所:高知県南国(なんこく)市

※別称:土佐国分寺土佐の苔寺(こけでら)



 お遍路13日目の朝、目覚めると少し空腹を覚えた。しかし、今日の午後19時までは水以外口にしないと決めていた。24時間断食を達成出来るのか不安だったが、とにかくやるしかない。

 幸いなことに、ドライブイン27で会った区切り打ちの遍路と道中で再会し、会話しながら歩いたことにより空腹を我慢出来た(一人で歩いていたらもっと辛かっただろう)。言葉を交わすことで、エネルギーの交流があったのではないかと思う。



 言葉や思考にはエネルギーがあるという考え方について、以前読んだ本についての記事を投稿しているが、お遍路中にその力を実際に感じることが出来た。
 四国の地で精も根も尽き果てて前のめりに倒れそうになりながら歩いていた時に、地元の方々から「頑張ってね」と声を掛けられると、急に元気になり背筋を伸ばして歩けるようになったことが何度もあったことを覚えている。

 古(いにしえ)の人は言葉の持つエネルギーについて知っており、それを「言霊(言魂)(ことだま)と呼んだ(声に出した言葉が、現実の事象に何らかの影響を与えると信じられていた)。
 私もなるべく周囲の環境に良い影響を与えられるような言葉を発したいと思う。



 7km程の道のりを歩き、国分寺に到着。

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 29番札所国分寺(土佐国分寺)は、聖武天皇の勅命により諸国に建てられた国分寺の一つ。

※四国88ヶ所霊場国分寺

阿波国(徳島県):15番札所
土佐国(高知県):29番札所
伊予国(愛媛県):59番札所
・讃岐(さぬき)国(香川県):80番札所



 弘法大師がこの地を訪れ、毘沙門天を彫って奥の院(毘沙門堂)(番外霊場)に安置された。その際に本堂で「星供(ほしく)の秘法」を修められたということで、「星供の根本道場」となった。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

※星供:その年の吉凶を司(つかさど)る星を祀(まつ)る、厄除け祈願の祭儀の一つ。元々は中国の道教冬至の祭儀だったが、密教が採り入れ仏教的に脚色した。「星供養(ほしくよう)「北斗法」とも呼ばれる(俗称:星まつり)。

 尚、土佐日記』の作者紀貫之国司として4年間滞在した国衙(こくが)は、かつてここから1km程離れたところに置かれていた。

国衙律令制下にて国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画。平安時代中期から鎌倉時代にかけて、その国の政治・経済・文化・軍事の中心となった。

 境内に杉苔が美しい庭園があることから、国分寺は「土佐の苔寺」とも呼ばれている。



 [第30番札所:百々山(どどざん) 東明院(とうみょういん) 善楽寺]

・御本尊:阿弥陀如来
・創建年:(寺伝)大同5年(810年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県高知市



 29番国分寺から30番善楽寺までは約7km。空腹の為か3時間程かかっている。



 かつて神仏習合の時代、善楽寺は30番札所土佐国一宮高賀茂(たかかも)大明神(現在の土佐神社)の別当として創建されたが、明治時代の神仏分離令により一時廃寺となった(筆頭別当寺の神宮寺は次席別当寺の善楽寺と合併させられ、続いて善楽寺を廃寺とする措置が取られた)。
 札所権と仏像(神宮寺の御本尊阿弥陀如来像(13世紀頃作)と善楽寺弘法大師像)は29番札所国分寺に移され、国分寺で納経を代行するようになった。

※神宮寺(別当寺):神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神社の管理権を掌握する場合は別当寺と呼ばれる。

 明治9年(1876年)、国分寺より再興された安楽寺(現在の奥の院(番外霊場))へ御本尊阿弥陀如来像が移され、安楽寺が30番札所となった。

 昭和5年(1930年)、国分寺より弘法大師像を移し再興された善楽寺も30番札所を名乗ることとなり、30番札所が2ヶ所並立する「遍路迷わせの札所」となった(善楽寺の御本尊阿弥陀如来像は、江戸期作のもの)。

 その後30番札所の正統性について善楽寺安楽寺の間で論争が続いたが、昭和39年(1964年)、30番札所の四国開創1150年を機に善楽寺「開創霊場安楽寺「本尊奉安霊場と称することとなったが混乱は続く。
 最終的に平成6年(1994年)より、善楽寺を30番札所、安楽寺奥の院とすることで札所の問題は解決した。



 参拝当時はこういった予備知識を持っていなかった為、土佐神社に参拝していない(後年四国を再訪した際に参拝している)。
 道中共に歩いた区切り打ち遍路より、善楽寺安楽寺の関係について概要を教えて頂いた。この方がいなかったら、安楽寺の存在を知ることなく先に進んでいたと思う。

 善楽寺を打った後、30番札所奥の院安楽寺へ。正式名称は「妙色山(みょうしきざん) 金性院(こんしょういん) 安楽寺だが、かつては善楽寺同様「百々山」と称していた時期もあったらしい。

 旅日記を振り返ると、上記二つの寺院について納経所での応対・サービスを比較している。
 結論から申し上げると、(この時たまたまかもしれないが)札所としての地位を失った安楽寺の方が良かった。



 安楽寺を参拝した後、予約した宿に向かうと言う区切り打ち遍路と別れた。
 その後銭湯に立ち寄り汗を流しているが、空腹時の入浴は避けた方がよいそうだ。
 コインランドリーで洗濯をしてから高知市の中心部に向かった。

 夕方、JR高知駅前に到着。交番でネットカフェの場所を教えて頂いた。対応して頂いた警察官が非常に親切で、お遍路に対し好意的だったことを覚えている。
 19時過ぎに繁華街の食堂で夕食。無事24時間断食を達成出来たことに感謝した。
 先程教えて頂いたネットカフェに行くと、自分の想像以上に料金が高かった(ナイトパック料金:1泊3500円)。

 この日、ネットカフェに宿泊した一番の理由は、デジカメのデータをメディア(CD)にコピーすることだった。512MBのメモリーカード2枚を所持していたが、空き容量が残り僅(わず)かだったのだ(途中から画像解像度を下げて撮影したがそれでも容量が足らなくなった)。
 秋葉原の家電量販店でデジカメを購入した際、当初の予算の倍近い金額のデジカメを購入した為、メモリーカード購入費用を節約していた。当時512MBのメモリーカード(SDカード)を1枚1000円程で購入していたが、せめて1GB(1枚約2000円)2枚にしておけば良かったと思う。

 残念なことに、ネットカフェのPCでメモリーカードを認識する為にはカードリーダーを別途購入する必要があった(約2000円)。当初の予定より出費が嵩(かさ)んだが仕方が無い。
 メモリーカードのデータ(写真)をCDにコピーしてからメモリーカードのデータを消去。

 ようやく一安心して眠りについた。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(11)修行の道場(3)大日寺(28番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第28番札所:法界山 高照院 大日寺]

・御本尊:大日如来
・創建年:(寺伝)天平年間(729年~749年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:高知県香南(こうなん)市



 お遍路12日目。目覚めて傷口を確認すると、足のマメがほぼ治っていた。
 足の裏の古い皮膚と新しい皮膚の間に水が溜まりマメとなっていたのだが、接着剤で張り合わせたかのようにその隙間が無くなっていた。古い皮膚の一部が剥がれて新しい皮膚がむき出しになっていた部分は、新しい皮膚が昨日より硬くなっていた。
 立ち上がって歩いてみると普通に歩くことが出来る。普通に歩けることがどれだけ有難いことなのか、今回身を以(もっ)て体験した。
 アロエの効力は自分の想像以上だった。アロエすごいというのが当時の率直な感想だが、今振り返るとドライブイン27のおかみさんの想いの力も大きかったと思う。傷付いた旅人に対する慈愛のエネルギーだ。

 運良く出発前に宿の方が外に出て来られた為、おかみさんに宜しく伝えて頂くようお願いした(おかみさんには結願後に御礼の手紙を書いている)。



 ドライブイン27から28番札所大日寺まで、約35km。足取りが軽くなったこともあり、淡々と歩いた。
 
 旅日記を読み返したが、大日寺までの道中で立ち寄った場所の記載は無く、写真も撮影していない為、詳細を思い出せない。
 しかし、この道中で出会ったお遍路について書き記している。この方から軽くお説教をされたからだ。
 当時の様子を思い出してみる。

 歩いていると、前方に歩き遍路がいた。急いでいる様子もなく景色を楽しみながら歩かれているようだ。
 追い付いて挨拶してから追い抜こうとしたが、この方が私に合わせて歩く速度を上げた為、一緒に歩くこととなった。
 今晩の宿を予約されているということで、15時過ぎに宿の付近でお別れするまで1、2時間程共に歩いている。

 この方の荷物は少なかった。確かに毎日15時頃に宿に着いて洗濯すれば、着替えも少なくて済む。
 朝6時~7時頃に出発し、1日20~30km位のペースで歩かれているそうだ。それ位のペースで歩けば心にも余裕があるし、道中の景色や人との出会いを味わい楽しむことが出来るだろう。そういった意味で、歩き遍路の理想のスタイルだと思う。

 お遍路に来た理由についてお互い話をした後、この方がご自身の職歴を語られた。
 定年まで勤め上げたお仕事では、かなり上の役職に就かれていたようだ。
 その後「君は何の仕事をしているのか?」と聞かれ、現在無職ですと答えると、その方の顔が曇った。

 「いい若い者(モン)が働かないでどうする?お遍路なんて定年になってから行けばいいだろう?」

 このセリフ、どこかで聞き覚えがあると思ったら、出発前に父に言われた言葉と同じだった。
 父だったら反論したと思うが、ここで口論しても意味が無いと思い、言葉を飲み込んだ。

 四国で出会った地元の方々から、こういった厳しい言葉を投げかけられたことは無かったと思う(心の中では思っていたかもしれないが)。
 四国の方々は、目の前を歩いていくお遍路に優しい言葉とお接待の気持ちを投げかけてくれた。ただそれだけだ。



 今振り返っても、当時の自分の判断(お遍路に行ったこと)について後悔はしていない。
 何故なら、自分が60歳、70歳まで生きられる保証はどこにも無いからだ。たとえその年齢まで生きたとしても、四国を歩くだけの体力が残っているかは分からない。
 後年、激しい運動をした際に膝の靭帯を痛めてしまった為、正直申し上げて今の自分には四国88ヶ所霊場通し打ちするのは難しいと思う。



 この後微妙な空気になり、お互い口数も少なくなった。
 別れ際、この方よりジュースをお接待して頂いた。甘いはずのジュースが苦(にが)く感じられたのを覚えている。
 1日の歩行距離が違う為か、この方と再会することは無かった。

 振り返ると、自分にとって耳が痛い言葉を言ってくれる存在は有難いものだ。父が亡くなった今はそう思う。



 大日寺には、午後16時半頃に到着した。

 寺伝によると、聖武天皇の勅願により、行基大日如来像を彫って堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し、開創したとされる。

行基作とされる大日如来坐像(国の重要文化財)は、高さ約146㎝の寄せ木造りで、四国では最大級のもの。

 その後弘仁6年(815年)に、弘法大師がこの地に立っていた大楠に対し、自らの爪で薬師如来を彫り、荒廃していた寺院を復興された。

※参拝時は気付かなかったが、境内に奥の院(番外霊場)爪彫(つめほり)薬師堂があり、弘法大師作の薬師如来像が安置されているらしい。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

 慶長年間(1596年~1615年)より土佐藩祈願寺として栄えた大日寺だが、明治時代の神仏分離令により一時廃寺となった。
 この時御本尊の大日如来像は「大日堂」と改称した本堂に安置されたことにより救われ、明治17年(1884年)に再興された。

 (写真は、本堂)

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 この日もテント泊をしているが、夕食後19時より24時間断食(水以外は口にしない断食)を開始している。

 断食を開始した理由については旅日記に記載していないが、当時修行に対する憧れのような気持ちが芽生えていたのではないかと思う。御厨人窟(みくろど)をはじめ弘法大師の修行場を見て来たからだ。

 とは言うものの、踏ん切りが付かないまま日々を過ごしていたのも確かだ。
 2004年のWPPD( World Peace & Prayer Day )(せかいへいわといのりの日)における【せかいへいわといのりのウォーク】において、イベントスタッフ達が断食(水も飲まず)をしながら歩いて疲労困憊(こんぱい)になっていたのを目撃している為、怖気(おじけ)づいていたのかもしれない。

 そんな中、前述のお遍路に軽くお説教されたことにより、発奮して気合が入ったというのが真相のような気がする。

 ようやく体調が回復しつつある矢先に断食を行うという、後先のことを考えていないような行動にも思えるが、自分の心の声・直感に従って動いていたのだろう。
 結果論ではあるが、断食によって自分を追い込むことにより眠っていた力が呼び覚まされ、生命力がUPしたのではないかと思う。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(10)修行の道場(2)神峯寺(27番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第27番札所:竹林山(ちくりんざん) 地蔵院 神峯寺(こうのみねじ)]

・御本尊:十一面観世音菩薩
・創建年:(寺伝)天平2年(730年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:高知県安芸(あき)郡安田町



 お遍路11日目の朝、この旅で一番の苦境に立たされていた。
 昨晩、(自分の知識の範囲内ではあるが)足のケアをしたつもりだったが、マメの状況は相変わらずだ(但し、布団でゆっくり睡眠を取れたおかげで、疲労は軽減されていた)。

 早朝に宿を出て歩き出したが、やはり足のマメが痛む為普通には歩けなかった。
 とにかく行けるとこまで行こうという気持ちで少しずつ足を進めた。



 国道55号をしばらく歩くと、遍路道との分岐に出た。遍路道は山道になるが、ショートカット出来る為国道沿いに進むより1km以上短縮となる。
 また、硬いアスファルトの上を歩くよりも足への衝撃が軽減されると思われた。
 ほぼ即断で中山峠経由の遍路道(室戸市安芸郡奈半利(なはり)町を結ぶルート)を選択。山道を通る為アップダウンもあったが、アスファルトを歩くより痛みを感じなかった。この道を選んで良かったと思う。

 この遍路道の道中、地元の方よりお接待をして頂いた。とは言っても、そこに人はいない。
 畑の脇に無人のクーラーボックス(発泡スチロールの箱)が置かれ、中にはプチトマトとペットボトル飲料が入っていた。
 そして、箱にはおへんろさん、ようこそ土佐へ 道中気をつけて 安全いのります。」と書かれていた(「お金はいらんきね‼」とも)。

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 歩くのがやっとの状態だった自分にとって、地元の方の温かいお心遣いが心に沁みた。
 誰もいないが、気持ちは確かにここにある。

 その節はお接待して頂き、どうもありがとうございました。



 (追記)

 このブログ記事は、一気に書き上げるのではなく毎日少しずつ下書きを作成している。
 今回の記事の下書きを書いている間の出来事を以下追記させて頂く。



 2021年2月12日の朝、目覚めた時にインスピレーションで思い浮かんだ言葉があった。

 「(見返りを期待することなく)、自分が生きた時空間に優しさを置いていく」

 最初は何のこっちゃ?と思ったが、よくよく考えてみると恐らく上記のお接待が模範例だと思われた(感謝の気持ちも置いていければ尚良いと思う)。
 
 まだまだ人生でいろいろな経験をしたいと思っているが、コロナ禍(か)の時代を迎え、もしかしたら自分が思っているよりも早く生を終える時が来るかもしれない。
 その覚悟を持って生きることと、上記の言葉のように心がけること。
 肝に銘じるというのは難しいが、なるべく意識しながら生活したいと思う。

 (以上、追記終わり)



 中山峠を抜け、再び国道55号へ。
 足の痛みをこらえつつ、足を引きずるように歩きながらお昼過ぎにドライブイン27に辿り着いた。
 27番札所神峯寺を打つ前に、ここでお昼休憩を取ることにした。何を注文したか旅日記に記録していないが、美味しい食事を頂いた(お遍路中に立ち寄った店での食事は全て美味しかった。作り手の気持ちがこもっていたからだと思う)。

 ここで一人の歩き遍路と出会っている。一週間の休みが取れたということで区切り打ちに来られていた方だ。
 今回の区切り打ちにおける最初の札所が神峯寺で、この日はドライブイン27に宿泊するとのことだった。この後、話の流れで神峯寺を一緒に参拝することになった。
 本人に伝えていなかったと思うが、この方は親戚のおじさんに雰囲気が良く似ており、初対面の時から親近感が湧いていた。



 食事の後、ドライブイン27にリュックを置かせて頂き、身軽な状態で神峯寺を打つことにした。
 重い荷物からは解放されたものの、上りということもあり足取りは重い。一緒に行くことになったお遍路に気を遣わせるのが申し訳なく感じた(神峯寺は、神峰山(こうのみねさん)(標高569.9m)の中腹にあり、88ヶ所霊場の中で9番目に標高が高い)。
 ドライブイン27から27番札所神峯寺まで約4kmの道のりだが、確か1時間半から2時間位かかって到着したと思われる(午後16時半頃に到着)。

 (写真は、山門(仁王門))

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 神峯寺高知県の札所では一番標高が高く、「土佐の関所」と呼ばれている。

※関所寺:四国88ヶ所霊場には各県に一ヶ所ずつ「関所寺」が存在し、「お大師様の審判を受け、邪悪なものは先に進めない」とされており、県一番の難所とされている。

阿波国(徳島県):19番札所立江寺
土佐国(高知県):27番札所神峯寺
伊予国(愛媛県):60番札所横峰寺
・讃岐(さぬき)国(香川県):66番札所雲辺寺(うんぺんじ)

※標高の高い札所ランキング(本堂の位置で比較)

 (1位)66番札所雲辺寺(うんぺんじ)(標高900m)
 (2位)60番札所横峰寺(標高745m)
 (3位)12番札所焼山寺(しょうざんじ)(標高700m)
 (4位)45番札所岩屋寺(標高585m)
 (5位)44番札所大寶寺(大宝寺)(だいほうじ)(標高560m)
 (6位)21番札所太龍寺(たいりゅうじ)(標高505m)
 (7位)20番札所鶴林寺(標高495m) 
 (8位)88番札所大窪寺(標高450m)
 (9位)27番札所神峯寺(こうのみねじ)(標高430m)  ※この記事
 (10位)65番札所三角寺(標高355m)

 昭和の時代の終わり頃、ご住職をはじめ地元の方々の尽力により神峯寺に至る道が整備されたが、かつてこの地は「遍路ころがし」と呼ばれた難所だった。『四国徧礼(へんろ)霊場記』には、「此れ山高く峙ち・絶頂より望む・幽径九折にして・黒き髪も黄色になりぬ・魔境ゆえに申の刻(午後4時)より後は人行く事を得ず」と書かれている。



 神峯寺の寺伝によると、神功皇后の時代に朝鮮半島進出の戦勝を祈願し、天照大神を祀った神社が起源とされる。

 後年聖武天皇の勅願により、行基が十一面観世音菩薩を彫って御本尊として神仏合祀し開創した。

 その後、大同4年(809年)に弘法大師が堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し、観音堂と名付けた。

 江戸時代までは、神峰山山頂付近にある神峯(こうのみね)神社(標高500m)が札所だったが、明治時代の神仏分離令により、神峯神社だけが残り寺院は廃寺となった。
 一時は、26番札所金剛頂寺に御本尊十一面観音と札所が預けられたが、明治20年(1887年)に御本尊と札所を帰還させ、かつての憎坊跡に堂舎を再興した。1912年(大正元年)、神峯寺として寺格を持つようになり現在に至る。

※神峯神社は、現在神峯寺奥の院(番外霊場)という位置付けになっている。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

 神峯寺は、山の中にあるということもあり雰囲気が良かった。17時頃まで30分程滞在してから下山している。



 下りの道は足を踏ん張る必要があり、痛めた足に負荷がかかった。もし重いリュックを背負ったまま歩いていたら、途中で力尽きていたかもしれない。
 一緒に参拝したお遍路に気にかけてもらいながら、何とかドライブイン27に到着した頃には日も暮れており、今日の寝床を決めなくてはならなかった。

 ドライブイン27のおかみさんに部屋の空きがあるか尋ねたところ、本日は満室とのこと。
 しかし正直言って、ここから重い荷物を背負って歩くだけの気力・体力は残っていない。
 ダメもとで宿の玄関前にテント泊しても良いか聞いてみた(早朝未明に立ち去るので他の宿泊者に迷惑はかけないと伝えた)。

 おかみさんは、少し考えた後に許可をしてくれた。通常ならば断る申し出だが、私の足の状態を考慮してOKして頂いたのだと思う。
 おかみさんのご厚意により、トイレと洗面所を使わせて頂けることとなった。しかも、他の宿泊客の入浴後となるが、お風呂もお接待して頂けるとのこと。とても有難かった。

 お風呂に入った後、おかみさんにお礼の言葉を伝えに行ったところ、明日の朝食用のおにぎりをお接待して頂いた。
 更におかみさんは、庭に植えてあった鑑賞用のアロエの葉を手折(たお)られた。アロエの葉の中にあるジェル状の部分を患部に塗るようにとのこと。おかみさんの優しいお気持ちが心に沁みた。

アロエの葉には、怪我をした際に傷の炎症を抑える「サルチル酸」や皮膚の再生に役立つ「ビタミンC」等、怪我の回復に役立つ様々な成分が含まれている。

 傷が治るよう祈りながらアロエを傷口に塗った後、深い眠りについた。



 当時を振り返り、ドライブイン27のおかみさんのお気持ちのこもったお接待に改めて感謝したい。その節は本当にありがとうございました。

 尚、今回その事実を知った時は大きなショックを受けたのだが、ドライブイン27は2019年に閉業されたそうだ。
 神峯時駐車場の前にあるドライブイン27神峯店は営業されているようなので、いつか四国を再訪する機会があれば立ち寄りたいと思う。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(9)修行の道場(1)最御崎寺(24番札所)~金剛頂寺(26番札所)

 【修行の道場(高知県)】


 
 お遍路9日目の朝、目覚めると、両足の裏に複数のマメが出来ていた。
 昨日から足の裏に違和感を感じていたが、ついに出来たかという感じだ。
 マメの原因は幾つか考えられる。

(1)歩行距離の延長
 今までは歩いても30km程だったが、昨日は40km近く歩いてしまった。
 札所では重いリュックを置いて身軽になれる時間が取れるのだが、昨日は札所が無かった為、歩く距離に対して休憩の回数が少なかった可能性も考えられる。

(2)足のケア不足
 日没後まで歩いて疲れ切った状態で野宿した為、昨晩寝る前にきちんと足のケアをしなかった。

(3)認識の甘さ
 以前会ったベテラン遍路より、「マメが出来ないよう気を付けるように」と言われていたが、マメが出来たとしても何とかなるだろうと甘く見ていた。
 今までの人生でも足の裏にマメが出来たことがあったが、その時は大きな問題にはならなかったということで、気楽に考えていた可能性が考えられる。

 この記事を書くにあたりネットで調べたところ、足の裏にマメが出来た場合の治療キットが豊富に見つかった。私が歩いた当時もあったのかもしれないが、そういった便利なグッズがあることを知らなかったと思う。

※当時の治療方法:針でマメに穴を開け溜まった水を抜き、その後気休め程度に傷薬を患部に塗り、絆創膏(ばんそうこう)を貼って終了。

 両足に複数のマメが出来ていたが、(左右どちらか忘れたが)大きいマメがある方の足は、地面と接触する際に痛みが走った。
 その為痛む足を引きずるような歩き方になるのだが、足への負荷を減らすべく金剛杖で踏ん張りながら歩くことにした。

 (写真は早朝出会った野生の猿)

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 この日は、下記の番外霊場に立ち寄ったり、その付近を通過している。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

佛海庵(仏海庵)(御本尊:地蔵菩薩)
 江戸時代、海上人(木食(もくじき)仏海)により建立された庵。仏海上人は、遍路の難所と言われたこの地に歩き遍路の接待と救済を目的として庵を建てた(宝暦10年(1760年))。
 当時は月に6000人~9000人位の歩き遍路がいたらしく、ここは彼らにとっての救いの宿となっていたらしい。
 仏海上人は庵のそばに宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建て、明和6年(1769年)に塔の下で即身成仏した。

・(鹿岡(かぶか))夫婦岩(みょうといわ)

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 夫婦岩(めおといわ)(みょうといわ)と呼ばれる岩は日本各地にあるが、その中でも大きい部類に入ると思われる。
 大晦日の晩に夫婦岩の間(う)の碆(はえ)に「竜燈」が灯(とも)ることがあったらしく、この神火を地元では「かじょうさま」と呼んだらしい。その火は新年を迎える為の浄火となったという言い伝えが残っている。

※竜燈(龍燈):龍神の灯す火と言われ神聖視されている、日本各地に伝わる怪火現象。
 主に龍神の住処と言われる海や河川の淵から出現し、水上に浮かんだ後に火が連なったり、付近の木等に留まるとされる。

室戸青年大師像
 高さ21m(台座部分5mを含む)。昭和59年(1984年)に建立された。立ち寄ってはいないが、大きな像の為国道55号を歩いているとその存在に気付く。
 かつて弘法大師もこの地を歩いたということが、お遍路をする者に大きな力をくれる。

 余談になるが、お遍路はその偉大な先人のことを、親しみを込めて「お大師さま」「お大師さん」と呼ぶ。
 身に付けた白衣(はくえ、びゃくえ)や菅笠(すげかさ)や手に持つ金剛杖には「同行二人(どうぎょうににん)と書かれている。「同行二人」という言葉の意味、それは「あなた一人ではなく、お大師さまもあなたと共に歩いていますよ」ということだ。
 道中幾度となく、その言葉の意味を噛みしめながら歩いた。

御厨人窟(御蔵洞)(みくろど)と神明窟(しんめいくつ)

 (下記写真の左側が御厨人窟、右側が神明窟)

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 御厨人窟と神明窟は、波による侵食により形成された海蝕洞(海食洞)(かいしょくどう)で、御厨人窟には五所神社があり、神明窟には神明宮がある。
 洞窟内部で聞こえる波の音は、室戸岬御厨人窟の波音」として日本の音風景100選に選定されている。
 参拝当時は内部を見学できたが、その後海蝕の進行による落石が頻繁化したらしく、洞窟内部への立入りが禁止されたらしい(現在の状況は不明)。
 弘法大師の著作三教指帰(さんごうし(い)き)には、阿国太龍嶽(太竜寺山と考えられている)にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し仏法の無二を現す」と書かれており、神明窟での修行中に明星が口に飛び込み、弘法大師悟りを開いたと伝えられている。
 当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあったらしく、洞窟の中で目にした風景は空と海だけだったことから、青年佐伯真魚(さえきのまお)は空海と名乗ったと伝わっている。

 洞窟内部はビリビリとした霊気に満ちており、当時その場にいたお遍路や観光客は皆口を揃(そろ)えて「ここはすごい」と感想を述べていた。

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 この日の午後、痛む足を庇(かば)いながら歩いたことにより、支えていた方の足の関節や腰にも痛みが発生。足への負荷を減らすべく金剛杖で踏ん張っていた為、両腕の筋肉はパンパンになっていた。
 特に厄介だったのは足腰の関節痛だ。他の痛みは何とか耐えられそうだったが、この状態が続くと本当に歩けなくなると感じた。自分の通常体重+荷物の重さ15kg分が増量されている状態でマメが出来た場合は、きちんと処置をしなくてはならないことを痛感した。
 何故病院に行って医者に診てもらわなかったのか、恐らく歩くのを止めて安静にするようにと言われるのが怖かったのだろう。

 日が暮れてから観音窟(最御崎寺(ほつみさきじ)奥の院)(番外霊場)前のパーキングに到着。既にバイカーや車で旅をしている人達が野宿の準備をしており、自分もここでテント泊をすることにした。



 [第24番札所:室戸山(むろとざん) 明星院(みょうじょういん) 最御崎寺]

・御本尊:虚空蔵菩薩(秘仏)
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海嵯峨天皇(勅願)
・住所:高知県室戸市

※別称:東寺(ひがしでら)(室戸岬では東西に対峙している最御崎寺が「東寺」、26番札所金剛頂寺「西寺」(にしでら)と呼ばれている)



 お遍路10日目、朝一番に最御崎寺へと向かった。雰囲気の良いお寺だ。

 (写真は山門(仁王門))

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 23番薬王寺から24番最御崎寺までは約76km。88ヶ所霊場の札所間距離で最長かと思ったが、実際は2番目に長い距離らしい(最長距離は37番岩本寺~38番金剛福寺(約81km))。

 室戸の地で修行し虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を成就した弘法大師は、唐から帰国後に嵯峨天皇の勅命を受け再びこの地を訪れ、彫った虚空蔵菩薩像を御本尊として本堂を建立したと伝えられている。



 [第25番札所:宝珠山(ほうしゅざん) 真言院 津照寺(しんしょうじ)]

・御本尊:(楫取(かじとり)(延命))地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県室戸市

※別称:津寺(つでら)(今昔物語集に室戸の「津」という地名及び「津寺」という名称が登場する)



 最御崎寺参拝後、室戸岬灯台に立ち寄ってからおよそ7km弱の道のりを2時間半かけて歩いた。通常であれば2時間かからないと思うが、足を庇いながら頑張って歩いたと思われる。

 (写真は鐘楼門に続く階段)

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 津照寺の寺伝によると、大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れた際、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ていることからこの地が霊地であると感得され、延命地蔵菩薩を刻み堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し開創したとされる。

 御本尊の「かじとり」地蔵については、幾つか由来がある。

(1)火事取り地蔵(『今昔物語集』より):本堂が火災にあった際、僧の姿になった御本尊地蔵菩薩がその旨を村人に知らせ、火難を逃れた。

(2)楫取地蔵(『旧記南路史』より):慶長7年(1602年)に土佐藩山内一豊が室戸沖で暴風雨に遭った際、突如僧侶が現れ船の楫(かじ)を取り無事に室津の港に入港した。
 その僧侶の正体が津寺(津照寺)の御本尊地蔵菩薩であるということが分かり、以降御本尊を楫取地蔵と呼ぶようにになった。



 [第26番札所:龍頭山(りゅうずざん) 光明院 金剛頂寺(こんごうちょうじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海平城天皇(勅願)
・住所:高知県室戸市

※別称:西寺(室戸岬では東西に対峙している最御崎寺が「東寺」、26番札所金剛頂寺が「西寺」と呼ばれている)



 津照寺から金剛頂寺まで約4kmだが、到着までに2時間かかっている。段々と歩くペースが落ちているが、痛む足で何とか歩いていたのだろう。

 金剛頂寺は、弘法大師にとって最初の勅願寺の創建(大同2年(807年)に開創)だったらしい。平城天皇の勅願により、御本尊の薬師如来を彫って納めたそうだ。

 創建時は「金剛定寺」と呼ばれていたが、次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改めたという。

 (写真は、山門(仁王門)に奉納された大草鞋(わらじ))

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 金剛頂寺参拝後再び国道55号に出て、道の駅キラメッセ室戸に立ち寄った。
 そこにはカップルや家族連れ等多くの観光客がいて、とても楽しそうな雰囲気が伝わってきた。足を痛めて暗い表情の自分とは雲泥の差だ。
 その暗い雰囲気のせいか、私のことを見かけた人から声をかけられることはなかった。
 周囲とのギャップを自分で感じていた為か、お店には入らなかったと思う。トイレを利用し自販機でジュースを購入して飲み終えた後、そそくさと立ち去った。

 さすがに今晩はきちんとした宿に泊まって足のケアをする必要があると感じた為、民宿に電話をした。



 この日宿泊したのは、室戸市吉良川(きらがわ)町にある民宿ホワードだ(素泊まり3800円)(残念ながら、その後廃業されたようだ)。

 吉良川町はかつて木材の産地として栄えたらしく、その街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。ちょっとした城下町のような雰囲気だった。

 徳島ではほとんど電話していなかったが、携帯電話の充電が出来るということもあり、この日は友人達に電話をかけている。心細かったのだろう。





(旅した時期:2006年)

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