旅拝

過去の旅の記録です。

四国巡礼編(13)修行の道場(5)竹林寺(31番札所)~清瀧寺(35番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第31番札所:五台山 金色院(こんじきいん) 竹林寺]

・御本尊:文殊(もんじゅ)菩薩
・創建年:(寺伝)神亀元年(724年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:高知県高知市

※88ヶ所霊場の中で唯一文殊菩薩像を御本尊とする。



 お遍路14日目。
 昨晩ネットカフェのブース席で睡眠を取ったが、周囲の物音で熟睡出来ず明け方に出発。竹林寺に到着したのは午前6時半過ぎだった。
 早朝ということもあり、寺院の空気が清々しい。この日一番目の納経者となった。

 以下、竹林寺の寺伝より。
 神亀元年(724年)に聖武天皇が唐(中国)の五台山(文殊菩薩の聖地)で文殊菩薩に拝する霊夢を見た。
 五台山に似た山を見つけ出すという天皇の命を受けた行基が、この地が霊地であると感得し栴檀(センダン)の木に文殊菩薩像を刻み、山上に本堂を建てて安置した。
 その後、大同年間(806年~810年)に弘法大師がこの地で修行した際、荒廃した堂塔を修復したと伝えられている。

竹林寺文殊菩薩は、安倍文殊切戸(きれど)文殊とともに日本三文殊の一つに数えられる。

※日本三文殊安倍文殊院(安倍文殊)(奈良県桜井市)、智恩寺(ちおんじ)(切戸文殊)(京都府宮津市)、大聖寺(だいしょうじ)(亀岡文殊)(山形県置賜(ひがしおきたま)郡高畠(たかはた)町)。竹林寺のように亀岡文殊に代わって日本三文殊を称する寺社も存在する。

 (写真は、本堂(文殊堂))

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 竹林寺御朱印を頂いた後、境内を散策している。緑が多く、歩いているだけで癒された。

 (写真は、五重塔)

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 [第32番札所:八葉山(はちようざん) 求聞持院(ぐもんじいん) 禅師峰寺(ぜんじぶじ)]

・御本尊:十一面観世音菩薩
・創建年:(寺伝)神亀年間(724年~729年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:高知県南国(なんこく)市

※別称:峰寺(みね(ん)じ、みねでら)



 31番竹林寺から32番禅師峰寺までは約6km。寺院に到着したのは午前9時頃だった。

 禅師峰寺は海に近い峰山(標高82m)の山頂にあり、地元では「みね(ん)じ」「みねでら」と呼ばれている。
 聖武天皇の勅命を受けた行基が、土佐沖を航行する船の海上安全を祈願して堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建てたのが起源とされている。
 その後弘法大師が訪れた際この地を霊地と感得し、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の護摩を修法され、十一面観世音菩薩を彫られて御本尊として祀(まつ)ったとされる。
 御本尊は「船魂(ふなだま)観音」と呼ばれ、漁師だけでなく土佐藩歴代藩主の信仰を受けた。

※虚空蔵求聞持法:真言百万遍唱える難行とされる修法で、達成した者は無限の記憶力が与えられるとされている。



 ここで、ドライブイン27で会った区切り打ちの遍路に再会している(この方とはこの日を最後に再会していないが、結願後に御礼の手紙を書いた)。

 当時を振り返ると、私の体調が万全でない時にいろいろとサポートして頂いたと思う(改めて感謝したい)。
 この方にとってみれば、怪我が治ったと思ったら断食を始めて勝手に苦しんでいたりと、私のことを随分と騒がしい奴だと思われていたかもしれない(そういったことは一切態度に出さない紳士的な方だったが)。



 [第33番札所:高福山 高福院 雪蹊寺(せっけいじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)(嘉禄元年(1225年)という説も有)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県高知市

※宗派:臨済宗(88ヶ所霊場臨済宗寺院は雪蹊寺11番札所藤井寺(ふじいでら)のみ)



 33番札所雪蹊寺への道中、区切り打ち遍路と別れて寄り道をしている。
 立ち寄ったのは桂浜(かつらはま)だ(禅師峰寺から7km弱)。桂浜に立つ坂本龍馬を見たかったというのが訪問の理由だった。

 桂浜に着くと、そこには想像以上に大きな坂本龍馬像が立っていた。銅像としては日本一の高さを誇るそうだ(像の部分は5.3mで台座部分を含むと13.5m)。
 もし坂本龍馬と話が出来るならば、弘法大師についてどう思うか聞いてみたいところだ。

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 桂浜から雪蹊寺までは約3km。お昼過ぎに到着した。

 雪蹊寺弘法大師の開基と言われ、創建当初は「少林山高福寺」と称したとされている(他には、嘉禄元年(1225年)に右近将監定光が高福寺を創建したとする記述がある(土佐国編年紀事略』)。
 鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶(たんけい)がこの地を訪れた際、寺名を「慶運寺」と改めたとされている。

 ※運慶の作品:薬師如来像(御本尊)、日光・月光菩薩(脇侍)
 ※湛慶の作品:毘沙門天吉祥天女善膩師童子(ぜんにしどうじ)像

 その後廃寺となった時期もあったが、天正年間(1573年~1593年)後期に土佐藩長宗我部元親が自身の宗派である臨済宗から月峰和尚を招き、慶運寺を再興した。
 元親の死後長宗我部家の菩提寺となり、寺名を元親の法名「雪蹊恕三大禅定門(せつけいにょさんたいぜんしょうもん)に因(ちな)んで「雪蹊寺」と改称した。
 江戸時代には「南学(朱子学南学派)発祥の道場」と呼ばれ、谷時中野中兼山等の優れた儒学者を数多く輩出している。
 明治時代の神仏分離令により明治3年(1870年)に廃寺となった際、納経は31番札所竹林寺にて「高福寺」の名で行われた。
 明治12年(1879年)に大玄和尚により寺院は復興した。

 雪蹊寺について旅日記に書き記しているのは、納経所で会った90歳の女性について。
 御朱印を押印して下さった方のことと思われるが、この年齢になっても働かれている姿に頭が下がる思いだった。



 [第34番札所:本尾山(もとおざん) 朱雀院(しゅじゃくいん) 種間寺(たねまじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)弘仁年間(810年~824年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県高知市



 33番札所雪蹊寺から34番種間寺までは約7km。午後14時過ぎに到着した。

 寺伝によると用明天皇在位(585年~587年)の頃、四天王寺(大阪市天王寺区)を建立するため来日した百済の仏師・造寺工達が帰国する際、土佐沖で強烈な暴風雨に襲われて、種間寺が建つ本尾山に近い秋山の港に漂着した。
 彼らは、航海の安全を祈願して薬師如来像を彫り、本尾山の山頂に祀った。これが寺院の起源とされている。
 その後、弘仁年間(810年~824年)に唐から帰朝した弘法大師がその薬師如来像を御本尊として安置し、諸堂を建てて開基された。その際に唐から持ち帰った五穀(稲(米)、麦、粟(あわ)、黍(きび)、豆または稗(ひえ))の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。

※国宝である御本尊の薬師如来像は「安産の薬師さん」と呼ばれ、信仰されている。

 明治時代の神仏分離令で一時廃寺となったが、明治13年(1880年)に再興された。



 [第35番札所:醫王山(いおうざん) 鏡池(きょうちいん) 清瀧寺(きよたきじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)養老7年(723年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:高知県土佐市



 34番種間寺から約10km歩き、35番清瀧寺には午後16時半過ぎに到着した。

 寺伝によると、養老7年(723年)に行基がこの地で霊気を感得して御本尊薬師如来像を彫り、寺院を建て「影山密院(けいさんみついん) 釋木寺(たくもくじ)(※「釋本寺」と記載されている資料も有)と名付けて開山したのが初めと伝えられている。
 その後、弘仁年間(810年~824年)に弘法大師がこの地を訪れ、本堂から300m程上った岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して7日間の修法を行った。満願の日に金剛杖で壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池が出来たことから醫王山鏡池院清瀧寺と寺名を改めたという。
 明治時代の神仏分離令により明治4年(1871)に廃寺となったが、明治13年(1880年)に再興された。

 (写真は、厄除け薬師如来と本堂)

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 清瀧寺を打った後、36番札所青龍寺(しょうりゅうじ)へ向かってしばらく歩き、道中にあった遍路小屋の脇にテントを張って野宿した。





(旅した時期:2006年)

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