旅拝

過去の旅の記録です。

四国巡礼編(15)修行の道場(7)岩本寺(37番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第37番札所:藤井山(ふじいざん) 五智院(ごちいん) 岩本寺(いわもとじ)]

・御本尊:不動明王(聖(しょう))観世音菩薩阿弥陀如来薬師如来地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)天平年間(729年~749年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:高知県高岡郡四万十(しまんと)町



 お遍路16日目。道の駅かわうその里すさきで目覚めると、午前3時半だった。眠ってからおよそ3時間で目覚めたことになる。寝不足ではあるが、自分の心に巣食う甘えの部分を削(そ)ぎ落して本当の自分に近づいていく感覚があった。
 昨日のこともある為二度寝はせず、テントを畳んで出発することにした。



 雨が降りそうな天気だった為、先を急ぐ。
 しばらく歩き、午前8時半に七子峠(ななことうげ)への分岐に到着(道の駅かわうその里すさきから約17km)。
 ここで国道56号から外れ遍路道(山道)を選択したが、昨日の雨の影響でぬかるんでおり、国道を歩けば良かったと後悔した。

f:id:pilgrimager:20210414224922j:plain

 アスファルトに比べ足に優しいので遍路道が好きというお遍路もいたが、基本的には舗装された道を選んだ方が無難だと思う(特に雨天時)。
 但し、近道として選択したり道幅の狭いトンネルを避ける場合等、積極的に遍路道を通った方が良いと思われるケースもある。



 この後疲労と睡眠不足のせいか、歩くペースが落ちている。休憩中にベンチで寝てしまうこともあった。



 予定より大幅に遅れて、午後15時半頃37番札所岩本寺に到着(七子峠から約13km)。

 寺伝によると、天平年間(729年~749年)に聖武天皇の勅命を受けた行基が、七難即滅・七福即生を祈念して現在地より北西約2㎞付近に鎮座する仁井田明神の傍に建立したと伝えられる、福円(圓)満寺が前身とされている。
 末寺七ヶ寺を持つ福円満寺は、仁井田明神の別当であったことから、「仁井田寺」「仁井田七福」「七福寺」等と呼ばれていた。

※神宮寺(別当寺):神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神社の管理権を掌握する場合は別当寺と呼ばれる。

 その後、弘仁年間(810年~824年)に弘法大師がこの地を訪れ、福円満寺を増築。建立した五つの社に仁井田明神の御神体をそれぞれ祀った。

※各社に不動明王(東大宮)、(清浄)観音菩薩(今大神)阿弥陀如来(中宮)薬師如来(西大宮)、(将軍)地蔵菩薩(聖宮)本地仏として安置した。

 このことから、福円満寺等は七ヶ寺と合わせて「十二福寺」、また仁井田明神は「仁井田五社」(現在の名称は高岡神社)と呼ばれ(総称:「仁井田五社十二福寺」)、嵯峨天皇の勅願所となり栄えた(別当寺の福円満寺が札所となった)。

 それに対し、岩本寺は元々町中にあり福円満寺から足摺(あしずり)へ向かう途中の宿坊(名称「岩本坊」)だった。
 1652年~1688年の間に衰退した福円満寺から別当が移り札所となった(岩本寺と改称)。
 明治時代の神仏分離令により仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一された。
 廃仏毀釈によって寺領地の大半を失い仏像と札所権が八幡浜吉蔵寺(きちぞうじ)に移ったが、明治22年(1889年)に復興して仏像と札所権を取り戻した。

 岩本寺は、本堂の(ごう)天井画が有名。画家や一般市民の描いた575枚の天井絵が飾られている。

f:id:pilgrimager:20210414225919j:plain

 岩本寺で、一人の歩き遍路と再会している。この方は、善根宿:栄タクシーのご主人に絶賛された顔相の持ち主だ。
 
 この後、一緒に土佐佐賀温泉こぶしのさとまで歩いた(岩本寺から約13km)。
 道中、「今を大切に」というお言葉を頂いた。考えすぎると「今」を見失うとのこと。
 亡くなられたご家族の供養の為に歩かれている方からの一言ということもあり、言葉に重みがあった。

 お金を持たずにお遍路をされていた為、温泉の入浴料と食事代(夕食と翌朝の朝食)をお接待した。この方にお接待出来ることがとても光栄なことに思えた。カイラス山で出会った五体投地巡礼者にチョコレートを渡した時と同じような気持ちだ。

 この日は、佐賀温泉前に建てられた遍路小屋にて野宿をした。





(旅した時期:2006年)

※このブログの応援方法⇒下記バナーをクリックして頂ければ幸いです。


お遍路ランキング

にほんブログ村 旅行ブログ 遍路(・巡礼)へ
にほんブログ村