旅拝

過去の旅の記録です。

四国巡礼編(11)修行の道場(3)大日寺(28番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第28番札所:法界山 高照院 大日寺]

・御本尊:大日如来
・創建年:(寺伝)天平年間(729年~749年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:高知県香南(こうなん)市



 お遍路12日目。目覚めて傷口を確認すると、足のマメがほぼ治っていた。
 足の裏の古い皮膚と新しい皮膚の間に水が溜まりマメとなっていたのだが、接着剤で張り合わせたかのようにその隙間が無くなっていた。古い皮膚の一部が剥がれて新しい皮膚がむき出しになっていた部分は、新しい皮膚が昨日より硬くなっていた。
 立ち上がって歩いてみると普通に歩くことが出来る。普通に歩けることがどれだけ有難いことなのか、今回身を以(もっ)て体験した。
 アロエの効力は自分の想像以上だった。アロエすごいというのが当時の率直な感想だが、今振り返るとドライブイン27のおかみさんの想いの力も大きかったと思う。傷付いた旅人に対する慈愛のエネルギーだ。

 運良く出発前に宿の方が外に出て来られた為、おかみさんに宜しく伝えて頂くようお願いした(おかみさんには結願後に御礼の手紙を書いている)。



 ドライブイン27から28番札所大日寺まで、約35km。足取りが軽くなったこともあり、淡々と歩いた。
 
 旅日記を読み返したが、大日寺までの道中で立ち寄った場所の記載は無く、写真も撮影していない為、詳細を思い出せない。
 しかし、この道中で出会ったお遍路について書き記している。この方から軽くお説教をされたからだ。
 当時の様子を思い出してみる。

 歩いていると、前方に歩き遍路がいた。急いでいる様子もなく景色を楽しみながら歩かれているようだ。
 追い付いて挨拶してから追い抜こうとしたが、この方が私に合わせて歩く速度を上げた為、一緒に歩くこととなった。
 今晩の宿を予約されているということで、15時過ぎに宿の付近でお別れするまで1、2時間程共に歩いている。

 この方の荷物は少なかった。確かに毎日15時頃に宿に着いて洗濯すれば、着替えも少なくて済む。
 朝6時~7時頃に出発し、1日20~30km位のペースで歩かれているそうだ。それ位のペースで歩けば心にも余裕があるし、道中の景色や人との出会いを味わい楽しむことが出来るだろう。そういった意味で、歩き遍路の理想のスタイルだと思う。

 お遍路に来た理由についてお互い話をした後、この方がご自身の職歴を語られた。
 定年まで勤め上げたお仕事では、かなり上の役職に就かれていたようだ。
 その後「君は何の仕事をしているのか?」と聞かれ、現在無職ですと答えると、その方の顔が曇った。

 「いい若い者(モン)が働かないでどうする?お遍路なんて定年になってから行けばいいだろう?」

 このセリフ、どこかで聞き覚えがあると思ったら、出発前に父に言われた言葉と同じだった。
 父だったら反論したと思うが、ここで口論しても意味が無いと思い、言葉を飲み込んだ。

 四国で出会った地元の方々から、こういった厳しい言葉を投げかけられたことは無かったと思う(心の中では思っていたかもしれないが)。
 四国の方々は、目の前を歩いていくお遍路に優しい言葉とお接待の気持ちを投げかけてくれた。ただそれだけだ。



 今振り返っても、当時の自分の判断(お遍路に行ったこと)について後悔はしていない。
 何故なら、自分が60歳、70歳まで生きられる保証はどこにも無いからだ。たとえその年齢まで生きたとしても、四国を歩くだけの体力が残っているかは分からない。
 後年、激しい運動をした際に膝の靭帯を痛めてしまった為、正直申し上げて今の自分には四国88ヶ所霊場通し打ちするのは難しいと思う。



 この後微妙な空気になり、お互い口数も少なくなった。
 別れ際、この方よりジュースをお接待して頂いた。甘いはずのジュースが苦(にが)く感じられたのを覚えている。
 1日の歩行距離が違う為か、この方と再会することは無かった。

 振り返ると、自分にとって耳が痛い言葉を言ってくれる存在は有難いものだ。父が亡くなった今はそう思う。



 大日寺には、午後16時半頃に到着した。

 寺伝によると、聖武天皇の勅願により、行基大日如来像を彫って堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し、開創したとされる。

行基作とされる大日如来坐像(国の重要文化財)は、高さ約146㎝の寄せ木造りで、四国では最大級のもの。

 その後弘仁6年(815年)に、弘法大師がこの地に立っていた大楠に対し、自らの爪で薬師如来を彫り、荒廃していた寺院を復興された。

※参拝時は気付かなかったが、境内に奥の院(番外霊場)爪彫(つめほり)薬師堂があり、弘法大師作の薬師如来像が安置されているらしい。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

 慶長年間(1596年~1615年)より土佐藩祈願寺として栄えた大日寺だが、明治時代の神仏分離令により一時廃寺となった。
 この時御本尊の大日如来像は「大日堂」と改称した本堂に安置されたことにより救われ、明治17年(1884年)に再興された。

 (写真は、本堂)

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 この日もテント泊をしているが、夕食後19時より24時間断食(水以外は口にしない断食)を開始している。

 断食を開始した理由については旅日記に記載していないが、当時修行に対する憧れのような気持ちが芽生えていたのではないかと思う。御厨人窟(みくろど)をはじめ弘法大師の修行場を見て来たからだ。

 とは言うものの、踏ん切りが付かないまま日々を過ごしていたのも確かだ。
 2004年のWPPD( World Peace & Prayer Day )(せかいへいわといのりの日)における【せかいへいわといのりのウォーク】において、イベントスタッフ達が断食(水も飲まず)をしながら歩いて疲労困憊(こんぱい)になっていたのを目撃している為、怖気(おじけ)づいていたのかもしれない。

 そんな中、前述のお遍路に軽くお説教されたことにより、発奮して気合が入ったというのが真相のような気がする。

 ようやく体調が回復しつつある矢先に断食を行うという、後先のことを考えていないような行動にも思えるが、自分の心の声・直感に従って動いていたのだろう。
 結果論ではあるが、断食によって自分を追い込むことにより眠っていた力が呼び覚まされ、生命力がUPしたのではないかと思う。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(10)修行の道場(2)神峯寺(27番札所)

 【修行の道場(高知県)】



 [第27番札所:竹林山(ちくりんざん) 地蔵院 神峯寺(こうのみねじ)]

・御本尊:十一面観世音菩薩
・創建年:(寺伝)天平2年(730年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:高知県安芸(あき)郡安田町



 お遍路11日目の朝、この旅で一番の苦境に立たされていた。
 昨晩、(自分の知識の範囲内ではあるが)足のケアをしたつもりだったが、マメの状況は相変わらずだ(但し、布団でゆっくり睡眠を取れたおかげで、疲労は軽減されていた)。

 早朝に宿を出て歩き出したが、やはり足のマメが痛む為普通には歩けなかった。
 とにかく行けるとこまで行こうという気持ちで少しずつ足を進めた。



 国道55号をしばらく歩くと、遍路道との分岐に出た。遍路道は山道になるが、ショートカット出来る為国道沿いに進むより1km以上短縮となる。
 また、硬いアスファルトの上を歩くよりも足への衝撃が軽減されると思われた。
 ほぼ即断で中山峠経由の遍路道(室戸市安芸郡奈半利(なはり)町を結ぶルート)を選択。山道を通る為アップダウンもあったが、アスファルトを歩くより痛みを感じなかった。この道を選んで良かったと思う。

 この遍路道の道中、地元の方よりお接待をして頂いた。とは言っても、そこに人はいない。
 畑の脇に無人のクーラーボックス(発泡スチロールの箱)が置かれ、中にはプチトマトとペットボトル飲料が入っていた。
 そして、箱にはおへんろさん、ようこそ土佐へ 道中気をつけて 安全いのります。」と書かれていた(「お金はいらんきね‼」とも)。

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 歩くのがやっとの状態だった自分にとって、地元の方の温かいお心遣いが心に沁みた。
 誰もいないが、気持ちは確かにここにある。

 その節はお接待して頂き、どうもありがとうございました。



 (追記)

 このブログ記事は、一気に書き上げるのではなく毎日少しずつ下書きを作成している。
 今回の記事の下書きを書いている間の出来事を以下追記させて頂く。



 2021年2月12日の朝、目覚めた時にインスピレーションで思い浮かんだ言葉があった。

 「(見返りを期待することなく)、自分が生きた時空間に優しさを置いていく」

 最初は何のこっちゃ?と思ったが、よくよく考えてみると恐らく上記のお接待が模範例だと思われた(感謝の気持ちも置いていければ尚良いと思う)。
 
 まだまだ人生でいろいろな経験をしたいと思っているが、コロナ禍(か)の時代を迎え、もしかしたら自分が思っているよりも早く生を終える時が来るかもしれない。
 その覚悟を持って生きることと、上記の言葉のように心がけること。
 肝に銘じるというのは難しいが、なるべく意識しながら生活したいと思う。

 (以上、追記終わり)



 中山峠を抜け、再び国道55号へ。
 足の痛みをこらえつつ、足を引きずるように歩きながらお昼過ぎにドライブイン27に辿り着いた。
 27番札所神峯寺を打つ前に、ここでお昼休憩を取ることにした。何を注文したか旅日記に記録していないが、美味しい食事を頂いた(お遍路中に立ち寄った店での食事は全て美味しかった。作り手の気持ちがこもっていたからだと思う)。

 ここで一人の歩き遍路と出会っている。一週間の休みが取れたということで区切り打ちに来られていた方だ。
 今回の区切り打ちにおける最初の札所が神峯寺で、この日はドライブイン27に宿泊するとのことだった。この後、話の流れで神峯寺を一緒に参拝することになった。
 本人に伝えていなかったと思うが、この方は親戚のおじさんに雰囲気が良く似ており、初対面の時から親近感が湧いていた。



 食事の後、ドライブイン27にリュックを置かせて頂き、身軽な状態で神峯寺を打つことにした。
 重い荷物からは解放されたものの、上りということもあり足取りは重い。一緒に行くことになったお遍路に気を遣わせるのが申し訳なく感じた(神峯寺は、神峰山(こうのみねさん)(標高569.9m)の中腹にあり、88ヶ所霊場の中で9番目に標高が高い)。
 ドライブイン27から27番札所神峯寺まで約4kmの道のりだが、確か1時間半から2時間位かかって到着したと思われる(午後16時半頃に到着)。

 (写真は、山門(仁王門))

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 神峯寺高知県の札所では一番標高が高く、「土佐の関所」と呼ばれている。

※関所寺:四国88ヶ所霊場には各県に一ヶ所ずつ「関所寺」が存在し、「お大師様の審判を受け、邪悪なものは先に進めない」とされており、県一番の難所とされている。

阿波国(徳島県):19番札所立江寺
土佐国(高知県):27番札所神峯寺
伊予国(愛媛県):60番札所横峰寺
・讃岐(さぬき)国(香川県):66番札所雲辺寺(うんぺんじ)

※標高の高い札所ランキング(本堂の位置で比較)

 (1位)66番札所雲辺寺(うんぺんじ)(標高900m)
 (2位)60番札所横峰寺(標高745m)
 (3位)12番札所焼山寺(しょうざんじ)(標高700m)
 (4位)45番札所岩屋寺(標高585m)
 (5位)44番札所大寶寺(大宝寺)(だいほうじ)(標高560m)
 (6位)21番札所太龍寺(たいりゅうじ)(標高505m)
 (7位)20番札所鶴林寺(標高495m) 
 (8位)88番札所大窪寺(標高450m)
 (9位)27番札所神峯寺(こうのみねじ)(標高430m)  ※この記事
 (10位)65番札所三角寺(標高355m)

 昭和の時代の終わり頃、ご住職をはじめ地元の方々の尽力により神峯寺に至る道が整備されたが、かつてこの地は「遍路ころがし」と呼ばれた難所だった。『四国徧礼(へんろ)霊場記』には、「此れ山高く峙ち・絶頂より望む・幽径九折にして・黒き髪も黄色になりぬ・魔境ゆえに申の刻(午後4時)より後は人行く事を得ず」と書かれている。



 神峯寺の寺伝によると、神功皇后の時代に朝鮮半島進出の戦勝を祈願し、天照大神を祀った神社が起源とされる。

 後年聖武天皇の勅願により、行基が十一面観世音菩薩を彫って御本尊として神仏合祀し開創した。

 その後、大同4年(809年)に弘法大師が堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し、観音堂と名付けた。

 江戸時代までは、神峰山山頂付近にある神峯(こうのみね)神社(標高500m)が札所だったが、明治時代の神仏分離令により、神峯神社だけが残り寺院は廃寺となった。
 一時は、26番札所金剛頂寺に御本尊十一面観音と札所が預けられたが、明治20年(1887年)に御本尊と札所を帰還させ、かつての憎坊跡に堂舎を再興した。1912年(大正元年)、神峯寺として寺格を持つようになり現在に至る。

※神峯神社は、現在神峯寺奥の院(番外霊場)という位置付けになっている。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

 神峯寺は、山の中にあるということもあり雰囲気が良かった。17時頃まで30分程滞在してから下山している。



 下りの道は足を踏ん張る必要があり、痛めた足に負荷がかかった。もし重いリュックを背負ったまま歩いていたら、途中で力尽きていたかもしれない。
 一緒に参拝したお遍路に気にかけてもらいながら、何とかドライブイン27に到着した頃には日も暮れており、今日の寝床を決めなくてはならなかった。

 ドライブイン27のおかみさんに部屋の空きがあるか尋ねたところ、本日は満室とのこと。
 しかし正直言って、ここから重い荷物を背負って歩くだけの気力・体力は残っていない。
 ダメもとで宿の玄関前にテント泊しても良いか聞いてみた(早朝未明に立ち去るので他の宿泊者に迷惑はかけないと伝えた)。

 おかみさんは、少し考えた後に許可をしてくれた。通常ならば断る申し出だが、私の足の状態を考慮してOKして頂いたのだと思う。
 おかみさんのご厚意により、トイレと洗面所を使わせて頂けることとなった。しかも、他の宿泊客の入浴後となるが、お風呂もお接待して頂けるとのこと。とても有難かった。

 お風呂に入った後、おかみさんにお礼の言葉を伝えに行ったところ、明日の朝食用のおにぎりをお接待して頂いた。
 更におかみさんは、庭に植えてあった鑑賞用のアロエの葉を手折(たお)られた。アロエの葉の中にあるジェル状の部分を患部に塗るようにとのこと。おかみさんの優しいお気持ちが心に沁みた。

アロエの葉には、怪我をした際に傷の炎症を抑える「サルチル酸」や皮膚の再生に役立つ「ビタミンC」等、怪我の回復に役立つ様々な成分が含まれている。

 傷が治るよう祈りながらアロエを傷口に塗った後、深い眠りについた。



 当時を振り返り、ドライブイン27のおかみさんのお気持ちのこもったお接待に改めて感謝したい。その節は本当にありがとうございました。

 尚、今回その事実を知った時は大きなショックを受けたのだが、ドライブイン27は2019年に閉業されたそうだ。
 神峯時駐車場の前にあるドライブイン27神峯店は営業されているようなので、いつか四国を再訪する機会があれば立ち寄りたいと思う。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(9)修行の道場(1)最御崎寺(24番札所)~金剛頂寺(26番札所)

 【修行の道場(高知県)】


 
 お遍路9日目の朝、目覚めると、両足の裏に複数のマメが出来ていた。
 昨日から足の裏に違和感を感じていたが、ついに出来たかという感じだ。
 マメの原因は幾つか考えられる。

(1)歩行距離の延長
 今までは歩いても30km程だったが、昨日は40km近く歩いてしまった。
 札所では重いリュックを置いて身軽になれる時間が取れるのだが、昨日は札所が無かった為、歩く距離に対して休憩の回数が少なかった可能性も考えられる。

(2)足のケア不足
 日没後まで歩いて疲れ切った状態で野宿した為、昨晩寝る前にきちんと足のケアをしなかった。

(3)認識の甘さ
 以前会ったベテラン遍路より、「マメが出来ないよう気を付けるように」と言われていたが、マメが出来たとしても何とかなるだろうと甘く見ていた。
 今までの人生でも足の裏にマメが出来たことがあったが、その時は大きな問題にはならなかったということで、気楽に考えていた可能性が考えられる。

 この記事を書くにあたりネットで調べたところ、足の裏にマメが出来た場合の治療キットが豊富に見つかった。私が歩いた当時もあったのかもしれないが、そういった便利なグッズがあることを知らなかったと思う。

※当時の治療方法:針でマメに穴を開け溜まった水を抜き、その後気休め程度に傷薬を患部に塗り、絆創膏(ばんそうこう)を貼って終了。

 両足に複数のマメが出来ていたが、(左右どちらか忘れたが)大きいマメがある方の足は、地面と接触する際に痛みが走った。
 その為痛む足を引きずるような歩き方になるのだが、足への負荷を減らすべく金剛杖で踏ん張りながら歩くことにした。

 (写真は早朝出会った野生の猿)

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 この日は、下記の番外霊場に立ち寄ったり、その付近を通過している。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

佛海庵(仏海庵)(御本尊:地蔵菩薩)
 江戸時代、海上人(木食(もくじき)仏海)により建立された庵。仏海上人は、遍路の難所と言われたこの地に歩き遍路の接待と救済を目的として庵を建てた(宝暦10年(1760年))。
 当時は月に6000人~9000人位の歩き遍路がいたらしく、ここは彼らにとっての救いの宿となっていたらしい。
 仏海上人は庵のそばに宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建て、明和6年(1769年)に塔の下で即身成仏した。

・(鹿岡(かぶか))夫婦岩(みょうといわ)

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 夫婦岩(めおといわ)(みょうといわ)と呼ばれる岩は日本各地にあるが、その中でも大きい部類に入ると思われる。
 大晦日の晩に夫婦岩の間(う)の碆(はえ)に「竜燈」が灯(とも)ることがあったらしく、この神火を地元では「かじょうさま」と呼んだらしい。その火は新年を迎える為の浄火となったという言い伝えが残っている。

※竜燈(龍燈):龍神の灯す火と言われ神聖視されている、日本各地に伝わる怪火現象。
 主に龍神の住処と言われる海や河川の淵から出現し、水上に浮かんだ後に火が連なったり、付近の木等に留まるとされる。

室戸青年大師像
 高さ21m(台座部分5mを含む)。昭和59年(1984年)に建立された。立ち寄ってはいないが、大きな像の為国道55号を歩いているとその存在に気付く。
 かつて弘法大師もこの地を歩いたということが、お遍路をする者に大きな力をくれる。

 余談になるが、お遍路はその偉大な先人のことを、親しみを込めて「お大師さま」「お大師さん」と呼ぶ。
 身に付けた白衣(はくえ、びゃくえ)や菅笠(すげかさ)や手に持つ金剛杖には「同行二人(どうぎょうににん)と書かれている。「同行二人」という言葉の意味、それは「あなた一人ではなく、お大師さまもあなたと共に歩いていますよ」ということだ。
 道中幾度となく、その言葉の意味を噛みしめながら歩いた。

御厨人窟(御蔵洞)(みくろど)と神明窟(しんめいくつ)

 (下記写真の左側が御厨人窟、右側が神明窟)

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 御厨人窟と神明窟は、波による侵食により形成された海蝕洞(海食洞)(かいしょくどう)で、御厨人窟には五所神社があり、神明窟には神明宮がある。
 洞窟内部で聞こえる波の音は、室戸岬御厨人窟の波音」として日本の音風景100選に選定されている。
 参拝当時は内部を見学できたが、その後海蝕の進行による落石が頻繁化したらしく、洞窟内部への立入りが禁止されたらしい(現在の状況は不明)。
 弘法大師の著作三教指帰(さんごうし(い)き)には、阿国太龍嶽(太竜寺山と考えられている)にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し仏法の無二を現す」と書かれており、神明窟での修行中に明星が口に飛び込み、弘法大師悟りを開いたと伝えられている。
 当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあったらしく、洞窟の中で目にした風景は空と海だけだったことから、青年佐伯真魚(さえきのまお)は空海と名乗ったと伝わっている。

 洞窟内部はビリビリとした霊気に満ちており、当時その場にいたお遍路や観光客は皆口を揃(そろ)えて「ここはすごい」と感想を述べていた。

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 この日の午後、痛む足を庇(かば)いながら歩いたことにより、支えていた方の足の関節や腰にも痛みが発生。足への負荷を減らすべく金剛杖で踏ん張っていた為、両腕の筋肉はパンパンになっていた。
 特に厄介だったのは足腰の関節痛だ。他の痛みは何とか耐えられそうだったが、この状態が続くと本当に歩けなくなると感じた。自分の通常体重+荷物の重さ15kg分が増量されている状態でマメが出来た場合は、きちんと処置をしなくてはならないことを痛感した。
 何故病院に行って医者に診てもらわなかったのか、恐らく歩くのを止めて安静にするようにと言われるのが怖かったのだろう。

 日が暮れてから観音窟(最御崎寺(ほつみさきじ)奥の院)(番外霊場)前のパーキングに到着。既にバイカーや車で旅をしている人達が野宿の準備をしており、自分もここでテント泊をすることにした。



 [第24番札所:室戸山(むろとざん) 明星院(みょうじょういん) 最御崎寺]

・御本尊:虚空蔵菩薩(秘仏)
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海嵯峨天皇(勅願)
・住所:高知県室戸市

※別称:東寺(ひがしでら)(室戸岬では東西に対峙している最御崎寺が「東寺」、26番札所金剛頂寺「西寺」(にしでら)と呼ばれている)



 お遍路10日目、朝一番に最御崎寺へと向かった。雰囲気の良いお寺だ。

 (写真は山門(仁王門))

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 23番薬王寺から24番最御崎寺までは約76km。88ヶ所霊場の札所間距離で最長かと思ったが、実際は2番目に長い距離らしい(最長距離は37番岩本寺~38番金剛福寺(約81km))。

 室戸の地で修行し虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を成就した弘法大師は、唐から帰国後に嵯峨天皇の勅命を受け再びこの地を訪れ、彫った虚空蔵菩薩像を御本尊として本堂を建立したと伝えられている。



 [第25番札所:宝珠山(ほうしゅざん) 真言院 津照寺(しんしょうじ)]

・御本尊:(楫取(かじとり)(延命))地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県室戸市

※別称:津寺(つでら)(今昔物語集に室戸の「津」という地名及び「津寺」という名称が登場する)



 最御崎寺参拝後、室戸岬灯台に立ち寄ってからおよそ7km弱の道のりを2時間半かけて歩いた。通常であれば2時間かからないと思うが、足を庇いながら頑張って歩いたと思われる。

 (写真は鐘楼門に続く階段)

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 津照寺の寺伝によると、大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れた際、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ていることからこの地が霊地であると感得され、延命地蔵菩薩を刻み堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し開創したとされる。

 御本尊の「かじとり」地蔵については、幾つか由来がある。

(1)火事取り地蔵(『今昔物語集』より):本堂が火災にあった際、僧の姿になった御本尊地蔵菩薩がその旨を村人に知らせ、火難を逃れた。

(2)楫取地蔵(『旧記南路史』より):慶長7年(1602年)に土佐藩山内一豊が室戸沖で暴風雨に遭った際、突如僧侶が現れ船の楫(かじ)を取り無事に室津の港に入港した。
 その僧侶の正体が津寺(津照寺)の御本尊地蔵菩薩であるということが分かり、以降御本尊を楫取地蔵と呼ぶようにになった。



 [第26番札所:龍頭山(りゅうずざん) 光明院 金剛頂寺(こんごうちょうじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海平城天皇(勅願)
・住所:高知県室戸市

※別称:西寺(室戸岬では東西に対峙している最御崎寺が「東寺」、26番札所金剛頂寺が「西寺」と呼ばれている)



 津照寺から金剛頂寺まで約4kmだが、到着までに2時間かかっている。段々と歩くペースが落ちているが、痛む足で何とか歩いていたのだろう。

 金剛頂寺は、弘法大師にとって最初の勅願寺の創建(大同2年(807年)に開創)だったらしい。平城天皇の勅願により、御本尊の薬師如来を彫って納めたそうだ。

 創建時は「金剛定寺」と呼ばれていたが、次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改めたという。

 (写真は、山門(仁王門)に奉納された大草鞋(わらじ))

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 金剛頂寺参拝後再び国道55号に出て、道の駅キラメッセ室戸に立ち寄った。
 そこにはカップルや家族連れ等多くの観光客がいて、とても楽しそうな雰囲気が伝わってきた。足を痛めて暗い表情の自分とは雲泥の差だ。
 その暗い雰囲気のせいか、私のことを見かけた人から声をかけられることはなかった。
 周囲とのギャップを自分で感じていた為か、お店には入らなかったと思う。トイレを利用し自販機でジュースを購入して飲み終えた後、そそくさと立ち去った。

 さすがに今晩はきちんとした宿に泊まって足のケアをする必要があると感じた為、民宿に電話をした。



 この日宿泊したのは、室戸市吉良川(きらがわ)町にある民宿ホワードだ(素泊まり3800円)(残念ながら、その後廃業されたようだ)。

 吉良川町はかつて木材の産地として栄えたらしく、その街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。ちょっとした城下町のような雰囲気だった。

 徳島ではほとんど電話していなかったが、携帯電話の充電が出来るということもあり、この日は友人達に電話をかけている。心細かったのだろう。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(8)発心の道場(7)薬王寺(23番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第23番札所:医王山 無量寿(むりょうじゅいん) 薬王寺]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)神亀3年(726年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県海部(かいふ)郡美波(みなみ)町



 お遍路7日目。「キクヤ食堂」(善根宿)を遍路仲間達と発った。
 今日で区切り打ちを終えて帰る遍路もいた為、寂しさもあったがこれが旅だ。

 薬王寺まで約20kmの道中、徳島の思い出について語り合い、感慨深い思いを抱きながら歩いた。
 薬王寺に着いたのは午後13時半過ぎだった。

 (写真は、本堂)

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 薬王寺の寺伝によると、神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が開創したとされる。

 その後、弘仁6年(815年)に平城上皇の勅命を受けた弘法大師が再興した。
 大師が彫ったとされる薬王寺御本尊の薬師如来「後ろ向き薬師」と呼ばれているそうだが、参拝時は知らなかったと思う。

※後ろ向き薬師:2体の御本尊の一つ。弘仁6年(815年)に弘法大師が彫ったとされている。
 文治4年(1188年)の火災の際、厨子(たまずしやま)(540m)にある奥の院(玉厨子庵(泰仙寺(たいせんじ)))(番外霊場)に自ら飛んで焼失を逃れ、後年後醍醐天皇により寺院が再建された際、飛んで帰り後ろ向きに入った厨子を自ら閉じたことから、「後ろ向き薬師」と称され秘仏となった。この為薬王寺には御本尊が2体ある。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。



 薬王寺を打ち遅い昼食を取った後、帰る遍路を駅(JR牟岐(むぎ)日和佐駅)まで見送りに行った。

 区切り打ちで徳島の札所を打ち終えた遍路にとって、薬王寺が今回の旅の結願の場所だったと言える。
 徳島の人達の温かい人情に触れながら、無事遍路の旅を終えたことに対する感謝の気持ちが湧き上がって来たのだろう。それはまだ旅を続ける遍路達にとっても同じだった。
 別れに際し、皆涙腺が緩くなっていたように思う。



 お遍路に行ってみたいが長期の休みが取れないという方には、(コロナウィルスの流行状況を見極めながら)是非一度徳島県の札所(1番~23番)を巡る区切り打ちをお勧めしたい。
 歩き遍路の場合、一般的には1週間~10日程の休みがあれば、23番まで打ち終えることが出来る。
 もしその後もお遍路を続けたければ、区切り打ちを繰り返して結願を目指すことが出来ると思うし、改めて時間のある時に通し打ちにチャレンジしてもよいと思う。



 区切り打ちの遍路仲間を見送った後、本日の宿に移動した(確か、薬王寺から2km程平等寺方面に戻ったと思う)。
 この日の宿は、善根宿のバスだった。このバスは、遍路仲間からドライブインはしもと」と呼ばれていたが、実際はドライブインはしもとのご主人が管理されている、バスを改造した善根宿だった。

 ベテラン遍路より、ここに宿泊するとご主人より夕食のお接待をして頂けると聞いていたが、実際に食事が届いた際は皆が歓声の声を上げた。旅館で出される料理のような豪勢な食事だったからだ。
 おそらくドライブインはしもとの宿泊者向けの料理をそのままお接待して頂いたのではないかと思われる。

 いつの日かドライブインはしもとにお客として訪問したかったが、残念ながら現在は閉業されているようだ(バスを改造した善根宿について、現在の状況は不明)。

 その節は宿泊場所と美味しいお食事をお接待して頂きましてどうもありがとうございました。

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 翌朝(お遍路8日目)、遍路仲間と別れ、一人歩き始めた。

 徳島で出会った遍路達に高知以降の道中で再会することはほとんど無かったように思う(1、2回程度有)。
 高知県では札所間の距離が長く、人によって1日に歩く距離が違う為だと思われる。

 徳島で出会ったお遍路仲間で、その後もよく電話を頂いたのは、18番札所恩山寺への道中で出会ったご住職だった。
 ご住職から週に1、2回程電話を頂いた覚えがある(時間帯が決まっていて20時~21時頃が多かった)。その時の状況を聞かれ、歩いていると答えると「今日はもう歩くのを止めるように」と諭(さと)されたことが何度もあった(ご心配頂いたことに感謝)。

 この方から、車のお接待(「車で先まで乗せていきますよ」というお申し出)については断らずご厚意に甘えなさいと言われていたのだが、(申し訳ないが)言いつけを守らなかった。

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 この日の思い出。

国道55号をひたすら南下。他のお遍路との交流はほとんど無かったが、数百m先に見える歩き遍路の背中を見つめながらひたすら歩く(歩く速度がほとんど変わらない為、一向に追い付かない)。

・旅日記に「海を見た。漁師を見た」と書き記している(この旅初めて海を見たと思われる)。

・道中何ヶ所か遍路小屋があり、休憩時にお接待をして頂いたこともあった。
 出来たばかりの遍路小屋での休憩中、遍路小屋を建てられた方の話を伺ったのだが、その方の言葉を旅日記に書き記している。

 「歩き遍路はお大師さん(弘法大師)と思うちょる」



 この日は40km程ひたすら歩き、ついに修行の道場(高知県)に入った(正確な場所は記録していないが白浜海岸(高知県安芸郡東洋町)付近でビバークしている)。

 発心の道場(徳島県)では、慣れない歩き遍路に対して、多くの方々(地元の方々や他のお遍路さん達)に助けて頂いた(感謝)。
 人生で例えるならば、幼年期~少年期(0歳~14歳):徳島だとすると、青年期(15歳~29歳):高知という感じだろうか(「壮年」についての Wikipedia より)。
 少年期から青年期へ大人になる為の儀式が23番札所薬王寺~24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)道中(約75km)だと思われる。残念ながら多くの遍路がこの長い道のりの途中で足を痛め、歩みを止めてしまうそうだ。

 これから先、歩んでいけるか正直不安だった。しかし、辛いことだけでなく楽しいこともたくさん待っていることだろう。
 お遍路初日の晩極度の疲労感+(旅を続けられるかという)不安感を感じた時と比べて、今の自分には発心の道場を打ち終えたという(わず)かながらの自信があった。

 しかしこの後、その小さな自信は打ち砕かれることになる。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(7)発心の道場(6)鶴林寺(20番札所)~平等寺(22番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第20番札所:霊鷲山(りょうじゅざん) 宝珠院(ほうじゅいん) 鶴林寺(かくりんじ)]

・御本尊:地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)延暦17年(798年)
・開基:空海桓武天皇(勅願)
・住所:徳島県勝浦郡勝浦町

※別称:お鶴(さん)

※余談になるが「勝浦」という地名は、那智勝浦町(和歌山県牟婁(ひがしむろ)郡や、勝浦市(千葉県)にも存在する(上記の地域では、2月~3月に大きなひな祭りイベントが開催される)。伝承によると、阿波国から天富命(あめのとみのみこと)と共に黒潮に乗って船で移住した勝占(かつうら)の忌部(いんべし)の名が由来となったとする説がある。尚、徳島市には勝占町も存在する。



 お遍路6日目。
 この日は二つの遍路ころがしを越える難所を通るということで、「寿康康寿庵(じゅこうこうじゅあん)」(善根宿)に滞在したお遍路達は皆早朝に起床し、各自準備が出来た者から発っていった。

 天気は快晴で心地よかった。この日の宿泊予定地は22番札所平等寺を越えたところにある「キクヤ食堂」(善根宿)を予定していた。距離的には寿康康寿庵から30km弱となる。

 (写真は、道中で見かけた藤の花)

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 寿康康寿庵から鶴林寺までは約10km。途中から本格的な遍路道に入り、遍路ころがしと呼ばれる山道になった。
 鶴林寺鶴林寺(標高516.1m)の山頂近くにあり、88ヶ所霊場の中で7番目に標高が高い(本堂の標高495m)。

※標高の高い札所ランキング(本堂の位置で比較)

 (1位)66番札所雲辺寺(うんぺんじ)(標高900m)
 (2位)60番札所横峰寺(標高745m)
 (3位)12番札所焼山寺(しょうざんじ)(標高700m)
 (4位)45番札所岩屋寺(標高585m)
 (5位)44番札所大寶寺(大宝寺)(だいほうじ)(標高560m)
 (6位)21番札所太龍寺(たいりゅうじ)(標高505m) ※この記事(下記参照)
 (7位)20番札所鶴林寺(標高495m) ※この記事
 (8位)88番札所大窪寺(標高450m)
 (9位)27番札所神峯寺(こうのみねじ)(標高430m)
 (10位)65番札所三角寺(標高355m)

 寺院に到着したのは午前10:30頃で、山の朝の清浄な気が気持ち良かった。

 鶴林寺の寺伝によると、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願により弘法大師が開創した。

 雌雄2羽の白鶴が杉の梢(こずえ、樹木の先の部分)で1寸8分(約5.5cm)の黄金の地蔵像を守護しているのを修行中に見た大師が、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた地蔵像を納めて御本尊とし、寺名を鶴林寺と定めた。
 山号は境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることにちなんで名付けられたそうだ。

 (写真は山門(仁王門))

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 [第21番札所:舎心山(しゃしんざん) 常住院(じょうじゅういん) 太龍寺]

・御本尊:虚空蔵(こくうぞう)菩薩
・創建年:(寺伝)延暦12年(793年)
・開基:(寺伝)空海桓武天皇(勅願)
・住所:徳島県阿南市

※別称:西の高野(大師堂の配置が高野山奥の院と同じ配列になっている為(御廟の橋、拝殿、御廟が並ぶ))

 鶴林寺から太龍寺までは約7km。せっかく上った山(鶴林寺山)を麓(ふもと)まで下りてから、再び太竜寺山(太龍寺山)(たいりゅうじやま)(太竜寺山弥山(みせん))(標高600m)の山頂近くまで上らなくてはならない(本堂の位置は標高505m)。

 阿波(徳島県)での遍路ころがしの難所として「一に焼山(12番札所焼山寺)、二にお鶴(20番札所鶴林寺)、三に太龍(21番札所太龍寺)」と称されている。

 四国88ヶ所霊場の遍路ころがしと呼ばれる札所の中で、個人的に一番印象深いのはこの日参拝した鶴林寺太龍寺だ。
 太龍寺に到着したのは午後13時過ぎだったが、鶴林寺と同様参拝者は少なかった。
 その為、大木に囲まれながら山の静寂を心ゆくまで満喫することが出来た。

 太龍寺の寺伝によると、延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって堂塔が建立され、弘法大師が御本尊虚空蔵菩薩像を始めとする諸仏を刻み開創したと伝えられている。

 ちなみに、(参拝したか記憶が曖昧だが)ここ太竜寺の境内から南西約600mに位置する舎心ヶ嶽」(番外霊場)という岩上で、弘法大師が100日間の虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を修行されたと伝えられている(弘法大師24歳のときの著作三教指帰(さんごうし(い)き)「大瀧嶽」(太竜寺山と考えられている)についての記述有)。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

※虚空蔵求聞持法:真言百万遍唱える難行とされる修法で、達成した者は無限の記憶力が与えられるとされている。

 寺院の山号は大師の修行した舎心嶽(舎心ヶ嶽)より、寺名は修行中の大師を守護したとされる大龍(龍神)にちなんでいる。


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 後年、神社仏閣巡りから発展する形で奥宮・奥の院のある山に登拝するようになった。
 仕事のストレスや自分の抱いたネガティブな感情が原因で、自分の気が枯れている状態になった時、無性に山に登りたくなる。
 気枯れ=穢(けが)という状態であったとしても、登山後に山の気で浄化されることが多々あった((はら)いの効果があると思う)。
 ストレス発散方法については他にもあるが、発散した後に清浄な気を体内に取り込めるという点で登山はお勧めだと思う(或いは(祓いの効果があると思われる)お勧めは、早朝の神社参拝、出かけるのが難しい場合は自宅の掃除)。



 遍路ころがしの中で、鶴林寺太龍寺の札所が特に印象深い理由について考えた。
 おそらく、鶴林寺で祓われ浄化された状態で太龍寺を打ったからではないかと思われる。

・他の札所(遍路ころがしのある山寺):(全てとは言わないが)街の喧騒で気が枯れてマイナス状態だったのが、参拝して0(本来の姿)に戻る(祓い・浄化の作用)。
太龍寺:既に鶴林寺を打って回復した状態で、太龍寺を打つ(参拝する)とプラスに転じる。

 他にも理由があるかもしれないが、この鶴林寺太龍寺四国の山寺の中でもとても印象深い札所だった。



 [第22番札所:白水山(はくすいざん) 医王院 平等寺]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)弘仁5年(814年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県阿南市



 寺伝によると、弘法大師がこの地を訪れ心に浮かんだ薬師如来を想いながら「あらゆる人々の心と身体の病を平等に癒し去る」と御誓願を立てられた。更に加持水を求めて井戸を掘られたところ、乳白色の水が湧いたという。
 大師はこの水で身を清め、百日間の護摩行を終えた後、薬師如来を彫られてこの地に建てたお堂の御本尊とした。
 山号は白き水が湧いたことから「白水山」、寺号は人々を平等に救済する祈りを込めて平等寺と定められたという。



 太龍寺から平等寺までは約11km。何とか午後17時前に打ち終えた。
 夕方ということもあり参拝者は少なかった。この日は鶴林寺太龍寺平等寺と、寺院の静かな雰囲気・佇(たたず)まいを感じることが出来たと思う。

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 平等寺から本日の宿泊予定地「キクヤ食堂」(善根宿)まではおよそ500m。
 旅日記に「キクヤ食堂」と記録しているが、ネットで調べたところ正式名称は「旅荘きくや」と思われる(喜久屋金物店の方が管理・運営)。現在は閉鎖されているようだ。お遍路道中で寝床を提供して頂ける善根宿は非常に有難かった。
 15年前に頂いた善意に改めて感謝したい。どうもありがとうございました。



 明日はいよいよ発心の道場(徳島県)最後の札所、23番薬王寺を打つ。
 善根宿に宿泊したお遍路の中には、薬王寺を打った後区切り打ちで旅を終える人もいた。
 また、高知県に入ると札所間の距離が長く、1日に歩く距離に違いが出やすくなる為、この後再会しない人もいた。
 僅かな期間ではあったが、毎日同じ目標に向かって歩んでいった仲間達ともうすぐお別れだ。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(6)発心の道場(5)恩山寺(18番札所)~立江寺(19番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第18番札所:母養山(ぼようざん) 宝樹院 恩山寺(おんざんじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:不詳(天平年間末?)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県小松島市



 お遍路5日目。
 この日見た夢の言葉だろうか、「道行く一人一人が仏様」と旅日記に書き記している。

 さて、次の18番札所恩山寺までは20km近く歩かなくてはならない。
 道中、新町温泉という銭湯に立ち寄る為、徳島の市街地を通るルートを選択した。距離的には少し遠回りになるが、温泉に入れるのは有難い。

 「栄タクシー」(善根宿)から歩き出してしばらく歩いた頃、お店の開店準備をしていた女性に声を掛けられた。お店の中に招かれた後、温かい飲み物等をお接待頂いた(感謝)。
 このお店の名前は「ビューティーサロン ガラスの城」という美容室だが、ネットで調べても見つからなかった。お店の名前を変えられたのか、閉業されたのか分からず終(じま)いだ(15年という年月を感じる)。



 栄タクシーでベテラン遍路に教えて頂いた情報によると、新町温泉は歩き遍路に対して温泉利用料をお接待して頂けるとのことだった。
 当時のご主人は三代目で、先代から歩き遍路にお接待を続けているという。
 この日の宿は「寿康康寿庵(じゅこうこうじゅあん)(善根宿)を予定しており、お風呂が無いということなので、ここでお風呂に入れるのは有難かった。

 新町温泉にお昼過ぎに到着。歩き遍路をしているとお伝えしたところ、快くお接待して頂いた(感謝)。
 コインランドリーが併設されている為、入浴中に洗濯をした。



 後年四国旅行をしているが、徳島に行く時は毎回ここ(新町温泉)に立ち寄っている。
 三代目ご主人は引退されたのか息子さんが番台に座られていた。息子さんはシャイな方で、以前お遍路の際にお接待頂いた御礼を伝えると「ああ、そうですか」と毎回あっさりとした対応をされる。
 早朝の夜行バス到着後、レンタカー事務所営業開始前に立ち寄ることもあったし、レンタカー返却後に夜行バス出発までの間に利用することもあった(朝6時から夜22時まで営業されているのが有難い)。



 温泉に入ってスッキリした後、近くの金刀比羅(ことひら)神社に参拝。心機一転再び歩き出した。
 ここから恩山寺までは約11km。先を急ぐあまりペースを上げた(再び汗をかいてしまった)。



 恩山寺直前の遍路道にはお遍路中に亡くなられた方のものと思われる古いお墓があった。
 この後数日間、歩き遍路をされているご住職と道中何度か会っているが、確か初対面がこの恩山寺道中だったと思う。
 この方のお話では夕方の日没前後の時間は、山や森の中は歩かないようにとのこと。目に見えない世界の話になるが、彷徨(さまよ)う霊が憑(つ)いてしまうらしい。



 恩山寺は山の中にある静かなお寺で雰囲気が良かった。

 寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基が開基した当初は「大日山福生院密厳寺」と号した。

 元々は女人禁制だったが、弘仁5年(814年)に弘法大師が修行した際に、訪ねて来た母(玉依御前)の為に修法を行い、女人解禁の祈願を成就して母君を迎え入れた。
 玉依御前は本寺で出家・剃髪しその髪を奉納したことから、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改めたとされる。

 

 [第19番札所:橋池山(きょうちざん) 摩尼院(まにいん) 立江寺(たつえじ)]

・御本尊:延命地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)天平19年(747年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県小松島市



 18番札所から約4km。歩くペースを上げて何とか17時前に到着出来た。納経所が閉まる前に打ち終えて安堵したが、庭園が美しかったこと以外あまり覚えていない。

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 立江寺の寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基が開基したとされる。光明皇后の安産を祈願し、一寸八分(5.5cm)の黄金の地蔵菩薩(「子安の地蔵さん」と呼ばれている)を彫って御本尊とした。

 弘仁6年(815年)に、弘法大師が当寺を訪れた際、小さい御本尊は後世になって失われる恐れがあるということで、一刀三礼して高さ1.9mの延命地蔵像を刻み、その胎内に御本尊を納められた。
 このときに寺名を「立江寺」と改められたという。

 当時は現在地より400m程西の奥谷山清水寺の辺りに寺院が建てられており、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。

 立江寺「四国の総関所」(四国八十八ヶ所の根本道場)また「阿波の関所」として知られるらしい。

※関所寺:四国88ヶ所霊場には各県に一ヶ所ずつ「関所寺」が存在し、「お大師様の審判を受け、邪悪なものは先に進めない」とされており、県一番の難所とされている。

阿波国(徳島県):19番札所立江寺
土佐国(高知県):27番札所神峯寺(こうのみねじ)
伊予国(愛媛県):60番札所横峰寺
・讃岐(さぬき)国(香川県):66番札所雲辺寺(うんぺんじ)

 立江寺以外は山寺の為難所というのも分かるが、立江寺が難所とされたのは「黒髪お京肉付鐘の緒伝説」によるものらしい。情けないことだが、記事を書くにあたりネットで調べて初めてこの話を知った。いろいろ興味深いお寺だと思う。

※黒髪お京肉付鐘の緒伝説:愛人と密通し夫を殺害したお京が、愛人と共に四国巡礼の為立江寺を訪れた際に御本尊を拝もうとしたところ、突然髪が逆立って鐘の緒に巻き上げられた。
 ご住職に罪を白状し懺悔したところ、お京の頭の皮が剥がれたものの一命を取り留めた。
 その後二人は立江寺の近くに庵を設け、生涯その地で地蔵尊を拝んだとされる。

 境内に「肉付き鐘の緒の黒髪堂」があるらしいが見逃している(おどろおどろしいので結果的に見なくて良かったかもしれない)。



 立江寺から善根宿「寿康康寿庵」までは約4km。日が暮れないうちに辿り着きたかった為、更に急ぎ無事日没前に到着した。

 昨晩「栄タクシー」で会ったお遍路の半分以上がこの日も一緒に泊まることとなった。これもだと思う。
 高知県に入ると札所間の距離が長くなる為、1日に歩く距離が人によって違ってくるのだが、徳島県は札所間の距離が比較的近い為、別れても札所や善根宿で再会するといったケースが多々あった。



 寿康康寿庵は、近くにある法泉寺のご住職の善意で運営されている。
 明日はまた遍路ころがしに挑戦しなければならない。布団も用意されており、ここでゆっくり休養出来るのは有難かった。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(5)発心の道場(4)大日寺(13番札所)~井戸寺(17番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第13番札所:大栗山(おおぐりざん) 花蔵院(けぞういん) 大日寺]

・御本尊:十一面観世音菩薩
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県徳島市

※別称:一の宮



 3日目の晩から4日目の朝にかけて、テントの中で何度も目を覚ました。疲労から来る眠気で一旦寝るものの、寒さですぐに目を覚ましてしまう(寝袋だけでは寒さを防げなかった)。
 日中はウィンドブレーカーを羽織(はお)って事足りたが、やはり防寒着を持ってくるべきだった。
 出発前に家でテントを組み立てる練習はしていたものの、実際に屋外でテント泊を試していなかったのが悔やまれた。夜の寒さについて自分の認識が甘かったと思う。

 結局睡眠不足のまま朝を迎えた。疲労も抜けておらず体調は万全とは言い難かったが、速やかにテントを撤収して先に進まなくてはならない。
 今日の目的は、16番札所観音寺(かんおんじ)と17番札所井戸寺の間にある「栄タクシー」(善根宿)に辿り着くことだ。



 歩き出してしばらくすると、地名は覚えていないが農産物の無人直売所らしき屋台で、開店の準備をしている初老の男性に出会った。みかん等の果物を並べている。

 男性に挨拶をして話をしていると、隣の民家の女性から声が掛かった。ご近所さんなのか男性の奥さんなのか忘れてしまったが、お接待をしてくれると言う。

 この後、お二人から果物(みかん、グレープフルーツ)とパン、コーヒーをお接待頂いた(感謝)。
 特に温かいコーヒーは、冷え切った体にとってとても有難かった。

 当時の写真(私と一緒に記念撮影)を見ると、お二人の優しい人柄が滲(にじ)み出ているのが分かる。
 人の顔というのは、ある程度年齢を重ねるとどういう生き方をしてきたのか隠すことが出来ないと思う。
 柔和な表情、優しい眼差し…願わくば自分もお二人のようになりたいものだ(難しいかもしれないが)。

※ブログを書くに当たり Google MAP のストリ-トビューで確認したが、お接待をして頂いた場所は分からなかった(国道438号から徳島県道20号石井神山線または徳島県道21号神山鮎喰(あくい)いずれかを通ったと思われるが、正確に記録していなかった為両方のルートを調べたが見付からず)。建物を建て替えたのかもしれないし、景観が変わったのかもしれない。
 自分の中ではいつでも再訪・再会出来ると思っていたが、この世は無常であり15年という年月は決して短くないことを痛感した。
 当時四国で出会った方々の中には亡くなられた方もいらっしゃるかもしれないし、かつて存在した道や建物も無くなっているかもしれない。
 思い出を残すという意味で、もっとたくさん写真を撮っておくべきだったと思う(この考え方は、仏教的には執着になるのかもしれないが)。



 お二人にたくさんの元気をもらって再び歩き出し、大日寺にはお昼前に到着した。
 ちょうど団体客が発った後で境内には一時の静寂が訪れていた。

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 県道21号を挟んで、大日寺の反対側には一宮神社(阿波国一宮)(大日寺奥の院)(番外霊場)が鎮座する。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

 大日寺の寺伝によると、弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地にある「大師が森」護摩修行をされていた際、大日如来が現れて「この地は霊地であるから一寺を建立せよ」と告げた。
 大師は大日如来像を彫り、堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立して本尊として安置し、「大日寺」と称したという。

 平安時代末期に阿波一宮が当地に分詞され阿波一宮神社が造られると当寺はその別当となった。

 その後、長宗我部元親の兵火により焼失したが、江戸時代初期に徳島藩三代藩主蜂須賀光隆により再建された。
 江戸時代には一宮神社が札所、当寺は納経所として一宮寺と呼ばれるようになっていた(真念『四國邊路道指南』に記載有り)。

 明治時代の神仏分離以降、行基作と言われる本地仏十一面観音像を御本尊として一宮神社より大日寺の本堂に移し、それまでの御本尊大日如来脇仏とされた(大日如来像は秘仏とされている)。

本地仏:神の本地(正体、本来の姿)である仏。
 神仏習合思想の一つである本地垂迹(ほんじすいじゃく)では、神道の八百万(やおよろず)の神々は、仏が化身として日本の地に現れた権現(権(かり)に日本の神々の姿をとって現れること)であると考えられた。

阿波国一宮:上一宮大粟(かみいちのみやおおあわ)神社、一宮神社、大麻比古(おおあさひこ)神社八倉比売(やくらひめ)神社の四社。上一宮大粟神社徳島県名西(みょうざい)郡神山町、他三社は徳島県徳島市に鎮座。

※神宮寺(別当寺):神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神社の管理権を掌握する場合は別当寺と呼ばれる。



 [第14番札所:盛寿山(せいじゅざん) 延命院 常楽寺(じょうらくじ)]

・御本尊:弥勒菩薩
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県徳島市

※88ヶ所霊場の中で唯一弥勒菩薩像を御本尊とする。



 寺伝によると、弘法大師がこの地で修行をしていたところ、多くの菩薩を連れて来迎された弥勒菩薩を感得した。
 大師は霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立して御本尊とした。

 後に大師の甥に当たる真然(しんぜん、しんねん)僧正(そうじょう)が金堂を建てた。また、高野山の再興で知られる祈親(きしん)上人(定誉(じょうよ))によって講堂三重塔仁王門等が建立され七堂伽藍の大寺院となった。

 天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失したが、江戸時代初期に復興した。



 常楽寺の境内は自然の岩盤の上にあり、むき出しとなった断層を確認出来る。
 その形状から流水岩の庭園と呼ばれているらしい。

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 [第15番札所:薬王山 金色院(こんじきいん) 国分寺]

・御本尊:薬師如来
・創建年:天平勝宝8年(756年)以前
・開基:(寺伝)行基
・住所:徳島県徳島市

※宗派:曹洞宗(88ヶ所霊場の中で唯一の曹洞宗寺院)
※別称:阿波国分寺



 聖武天皇の勅命により諸国に建てられた国分寺の一つ。

※四国88ヶ所霊場国分寺

阿波国(徳島県):15番札所
土佐国(高知県):29番札所
伊予国(愛媛県):59番札所
・讃岐(さぬき)国(香川県):80番札所

 14番札所常楽寺から15番札所国分寺までは、その距離僅(わず)か800m。
 国分寺に着いたのが13時半頃だった。本日中に17番井戸寺を打ち終えたかったが間に合いそうだ。

 国分寺の寺伝によると、行基薬師如来を刻んで開基し、聖武天皇から釈迦如来大般若経光明皇后の位牌厨子が納められた。
 開基当初は法相宗(ほっそうしゅう、ほうそうしゅう)の寺院だったが、弘仁年間(810年~824年)に弘法大師が巡教された際、真言宗に改めている。

 天正年間(1573年~1592年)に土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失した。

 寛保元年(1741年)に阿波藩郡奉行速水角五郎によって再建。延享3年(1746年)に曹洞宗に改宗した。

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 [第16番札所:光耀山(こうようざん) 千手院 観音寺(かんおんじ)]

・御本尊:千手観世音菩薩
・創建年:(寺伝)天平13年(741年)
・開基:(寺伝)聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県徳島市



 寺伝によると、聖武天皇国分寺(国分僧寺国分尼寺)建立の勅命を出した際、行基に命じて勅願道場として本寺を建立したとされている。

※勅願道場:ネットで調べたところ、勅願寺と同義と思われる。

勅願寺:寺院の寺格の一つ。天皇上皇の勅願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。

 弘仁7年(816年)に弘法大師がこの地を訪れ、御本尊として千手観音像、脇侍に不動明王毘沙門天を刻んで再興し、現在の寺名に改めたとされる。
 
 その後、天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火で罹災したが、万治2年(1659年)に宥応(ゆうおう)法師が再建した。

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 申し訳ないが撮影した写真が鐘楼(しょうろう)のみで、寺院については思い出せない。
 門を通って境内に入るとすぐ目の前に本堂がある為、私のデジカメではフレームに収まらず写真が撮れなかったのだろうか。

 この日参拝した13番札所から17番札所までは各札所の距離が近いということで、何とか17番まで打ち終えたいと逸(はや)る気持ちを止められず、心ここにあらずという状態だった可能性が考えられる(その為各寺院の印象が薄くなってしまっている)。
 札所間の距離が近い時に多かったが、急げば次の札所の納経も間に合うと焦る傾向があった。
 心を込めて参拝することよりも納経帳に御朱印を頂くことが優先され、スタンプラリーのようになってしまうケースがあったことが悔やまれる。



 [第17番札所:瑠璃山(るりざん) 真福院(しんぷくいん) 井戸寺]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)白鳳2年(673年)
・開基:(寺伝)天武天皇(勅願)
・住所:徳島県徳島市

 寺伝によると、天武天皇の勅願道場として阿波国国司に隣接した土地に建立され妙照寺と名付けられた。
 後に弘法大師が訪れた際、水不足に悩む村人の為に錫杖(しゃくじょう)で一夜にして井戸を掘ったことから、寺名を「井戸寺」に改めたという。



 お寺で美味しい井戸水を頂いたことを旅日記に記している。

 当時撮影した記念写真を見ると、自分の顔に疲労感は見られない。
 もしかしたら途中で「栄タクシー」(善根宿)に立ち寄ってリュックを置かせてもらい、荷物を軽くしてから参拝したのかもしれない。
 或いは、無事17番札所まで打ち終えた安堵の気持ちがあったのかもしれない(写真撮影時刻は16:40だった)。



 井戸寺参拝後、近辺を散策している。
 目的は、食料と服(テント泊時の防寒着)を購入することだった。特に防寒着については都市部にいる間に購入しないと田舎では手に入らない可能性が考えられた。

 この時立ち寄ったお店の名前は五分利堂で、果物をお接待して頂いた。
 4月ということもあり、お店で販売している服の中に目的の防寒着は無かった(確か婦人服が多かったと思う)が、不憫に思われたのかご主人より服をお接待して頂けるとのこと。
 詳細は旅日記に記録していないが、記憶が正しければご子息の服(フリース)だったと思う。突然の申し出に最初はお断りしたのだが、「不要な服」ということで有難く頂戴した。そのお言葉は優しさからの方便だったのかもしれないが、この服は道中大いに活用させて頂いた。

 五分利堂の皆さま、その節はどうもありがとうございました。

※五分利堂のHPに四国遍路についての特集ページがあったので紹介させて頂く(HPはこちら)。



 この日の宿は、善根宿である栄タクシーだ。
 栄タクシーのご主人は事業所の2階をお遍路向けに無料で提供しておられた。
 私が宿泊した晩には10人程の歩き遍路がいたが、スペース的にも用意された布団の数もまだ余裕があったと思う。
 お風呂も交替で使わせて頂いた。2日ぶりのお風呂はとても気持ち良かった。

 興味深かったのは、夕方栄タクシーのご主人が2階に確認に来られた際、遍路一人一人の顔を覗(のぞ)き込まれたことだ(まじまじと見つめる感じ)。
 この方は膨大な数の遍路の顔を見てきただけあって、顔(人相)を見ただけでその人がどういう人か分かるらしい。中には職業まで当てられた遍路もいた(はっきり言って占い師かと思った)。

 この日いた遍路の中で、ご主人に「あなた、いい顔をしているね~」と言わしめた遍路がいた。
 その方について覚えているのは、目の前の人に全身全霊を込めて接する人だったこと(その間、相手の時間分も生きることになる⇒人生の経験値が違う)。
 その方の歩んでこられた人生について断片的に伺ったが、はっきり申し上げて筆舌に尽くしがたい。それを乗り越えてこられて辿り着いた顔(表情)なのだろう。
 しかし天はどこまで試練を与えるのか、その方は最愛の家族を事故で一度に失って、その供養の為に四国に来られていた。



 話が脱線するが、後日30~40代位の女性の歩き遍路に出会った際、挨拶したところ無視された。
 その時はこちらの挨拶の声が聞こえなかったのかもしれないと思い、その翌日位に再会した時に挨拶したところ無言で睨(にら)み返された。
 お遍路とすれ違う際には挨拶をするようにしていたが、こういった対応は初めてだった。
 何か自分が悪いことをしたのか考えても分からなかったが、この方を見かけたら距離を取ることにした。

 しかし、ふとしたことからこの時の回答(らしきもの)が得られた。
 後日、前述の御仁(栄タクシーのご主人絶賛のお遍路)に再会したのだが、他のお遍路の話題になった際この女性を見かけたか聞いたところ、先日会ったとのこと。

 その時聞いた話によると、この方のご主人が自ら命を絶たれたらしく、供養の為四国巡礼をしているらしかった。その話を聞いて身内を亡くした者同士で涙を流しながら抱擁したそうだ。
 悲しみに暮れながら供養の為に巡礼していた女性から見れば、私のように旅行感覚で来ている遍路が許せなかったのかもしれない。

 この後四国巡礼中に、身内の供養の為に歩かれている(またはそのように思われる)方々に何度か出会っている。
 一人一人に巡礼の理由を確認したわけではないが、明らかに空気が違っており、旅を楽しんでいる雰囲気は感じられない。張り詰めた緊張感のようなものや、悲しい波動を感じることがあった。
 (私が出会ったお遍路の中で)供養の為に歩かれている方々は、私のように中途半端な服装ではなく、伝統的白装束(白衣(はくえ、びゃくえ)、笈摺(おいずる、おいずり)とも言う)に身を包まれた方の割合が多かった気がする。菅笠(すげかさ)をきちんと被り、手には手甲(てっこう)を装着し、足には脚絆(きゃはん)と足袋(たび)を履いていた。



 話を栄タクシーのご主人に戻す。
 ご主人はまず「通し打ち」(一周1200~1300kmを通しで周る巡礼法)の達成率が3割以下と伝え、ショックを受けた面々に対しその後一人ずつ予言をしておられた。
 それはその遍路が結願(88ヶ所巡礼達成)出来るかどうかについてである(どれ位当たっているかは不明だが、かなり的中率が高そうな雰囲気を感じた)。

 ちなみにご主人は私の顔を覗き込んだ際、結願出来るか首を傾(かし)げて判断しかねていた(「分かんね」と結論出ず)。



 残念なことに、栄タクシーは昨年閉業されており、善根宿も閉まったそうだ。
 旅の良き思い出となったご主人の善意に心から感謝したいと思う。

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(旅した時期:2006年)

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