四国巡礼編(2)発心の道場(1)霊山寺(1番札所)~地蔵寺(5番札所)
(ブログを書くことを想定しておらず)メモ書き程度しか書き記していない旅日記と、撮影した写真を見ながら、当時の情景を思い出して記事を書いていきたいと思う。
【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】
[第1番札所:竺和山(じくわさん) 一乗院 霊山寺(りょうぜんじ)]
・御本尊:釈迦如来
・創建年:(寺伝)天平年間(729~749)
・開基:(寺伝)行基・聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県鳴門市
※別称:一番さん
霊山寺の寺伝によると、奈良時代天平年間(729年~749年)に聖武天皇の勅願により行基によって開創されたとされている。
弘仁6年(815年)に弘法大師(空海)がこの地を訪れ、21日間(三七日)留まって修行された際、天竺(インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)で釈迦が仏法を説いた情景に似ていると感得。インドの霊山を和国(日本)に移すという意味で「竺和山霊山寺」と名付け、四国88ヶ所霊場開創祈願をされたという。
四国88ヶ所霊場の1番札所:霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県にある。
JR徳島駅まで夜行バスで移動。緊張のせいか2時間位しか眠れず、睡眠不足だった。
徳島駅から高徳線に乗り坂東(ばんどう)駅で下車。坂東駅から霊山寺までは徒歩10分弱。
霊山寺に着いた時間は午前7時過ぎ位だったと思うが、それでも既にお遍路さん達が集まってきていた。
ここ霊山寺にてお遍路グッズを購入予定だったが、2番札所の方が安いという情報を得た為、一旦極楽寺へと向かった。
※誰からの情報か旅日記に記載していないが、確か霊山寺で出会った先達(せんだつ)(先輩遍路)からの情報だったと思う。実際極楽寺の方が若干安かった。
ちなみに、毎回確認していたわけではないが、遍路グッズは札所番号が大きくなるほど安くなる傾向があった。10番札所切幡寺(きりはたじ)で、グッズ価格が更に安くなっていることに驚いたが、最終的には80番札所国分寺が一番安いと思った(現在の状況は不明)。
札所は1番から打つ(参拝する)のが一般的だが、どの札所から始めてもいいらしいので、予算の厳しい方はグッズの安い札所から始めてもいいかもしれない。
霊山寺から極楽寺へと向かう間、大麻比古(おおあさひこ)神社(阿波国一宮)への道案内の看板を確認した為参拝している。
この時は知らなかったが、かつて神仏習合の時代、霊山寺は大麻比古神社の神宮寺(別当寺)としての役割を果たしていたと言われおり、大麻比古神社は霊山寺の奥の院(番外霊場)ということになるようだ(諸説有)。
※阿波国一宮:上一宮大粟(かみいちのみやおおあわ)神社、一宮神社、大麻比古(おおあさひこ)神社、八倉比売(やくらひめ)神社の四社。上一宮大粟神社は徳島県名西(みょうざい)郡神山町、他三社は徳島県徳島市に鎮座。
※神宮寺(別当寺):神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神社の管理権を掌握する場合は別当寺と呼ばれる。
※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。
極楽寺で下記を購入。
・菅笠(すげかさ):初めのうちは被(かぶ)っていたが、紐の締(し)め方が下手なのか風が吹くとすぐに頭から外れてしまう為、途中で被るのを止めてしまった(リュックに括(くく)り付けて歩いた)。
・袖(そで)無し白衣(はくえ、びゃくえ):歩いて汗をかくことや、洗濯後の乾きやすさを考え半袖タイプを購入。
・輪袈裟(わげさ):首に掛ける袈裟。
・念珠:数珠。チベットで購入したものを使おうかと思ったが、四国遍路用に新調した。
・金剛杖(こんごうつえ):雨の日は木が濡れて柔らかくなる為、すり減る量が多い。杖カバーを外すと分かるが、杖は卒塔婆(そとば)を模した形状に加工され梵字が書かれていた。梵字は「地・水・火・風・空」の五文字で、五輪卒塔婆を表現している。かつてのお遍路(歩き遍路)は万が一の場合(死)を覚悟しており、道中で命を落とした場合、無縁仏として埋葬され金剛杖が卒塔婆の代わりになったらしい。
極楽寺でお遍路グッズを購入し霊山寺に戻った後、霊山寺で下記を購入。
・納経帳:四国88ヶ所霊場用の納経帳(御朱印帳)(B6サイズ)を購入。後にベテラン遍路に「(特に結願間近は)盗まれないように注意するように」と言われた。盗んで売るという不届き者がいるそうだ。確かに1ヶ所で納経代(御朱印代)300円を支払うわけで、88寺で26400円かかる計算となる。宿泊費を削る為テントを使用していた私にとって、決して安い金額ではない。
・納め札:本堂と大師堂に各1枚ずつ納める札。結願の回数により色が変わるとのことだった。白(1~4回)、青(5~7回)、赤(8~24回)、銀(25~49回)、金(50~99回)、錦(100回以上)。お遍路1回目ということで白の札を購入。自身の個人情報(名前、住所、年齢)を書く欄があり、遍路同士で名刺代わりに交換することもあった。お接待を受けた時に御礼に渡すと聞いていたが、状況によると思う(お札に個人情報をどこまで書くか迷うところだ)。
・経典:蛇腹(じゃばら)式の般若心経の経本(勤行本)を購入したが、慣れていないせいか使いづらく感じた(中身が開いてしまう)。霊山寺で頂いた小冊子(お遍路ガイドブック)に般若心経が記載されており、こちらを主に使用した。
お遍路に必要なものを全て揃えた後、ここ霊山寺で遍路の作法・心構えの説明を受けた。
般若心経の読み方さえよく分からない状態だったが、見様見真似で経文を唱えた(それでも旅の後半には般若心経を暗唱出来るようになっていた。何事もやってみるものだと思う)。
そして納経帳に御朱印を頂き、これで晴れてお遍路の始まりとなった。
この先、自分はどのような体験をするのだろう。果たして最後まで歩き通せるだろうか。期待と不安を感じながらの出発だ。
[第2番札所:日照山(にっしょうざん) 無量寿院(むりょうじゅいん) 極楽寺]
・御本尊:阿弥陀如来
・創建年:(寺伝)弘仁年間(810~824)
・開基:(寺伝)行基
・住所:徳島県鳴門市
寺伝によると、行基(668~749)が開基と伝えられているが、弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地で21日間阿弥陀経を読誦(どくじゅ)し、その結願の日に阿弥陀如来の姿を感得した為、大師はその姿を刻んで御本尊とされたという。
自宅を発つ前に、ちょっと重いが大丈夫だろうと思っていた荷物が徐々に重く感じられるようになった。
霊山寺から極楽寺までは約1.4km。前述のように既にここを一往復している。
本日2回目の訪問が正式参拝となった。
ここでは、弘法大師お手植えの長命杉(樹齢1100年以上、樹高30m以上、幹周6m以上)の写真を撮影しているが、その他特に旅日記にコメントを残していない。
[第3番札所:亀光山(きこうざん) 釈迦院 金泉寺(こんせんじ)]
・御本尊:釈迦如来
・創建年:(寺伝)天平年間(729~749)
・開基:(寺伝)行基・聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県板野郡板野町
金泉寺の寺伝によれば、天平年間(729年~749年)に聖武天皇の勅願により行基が御本尊を刻み、「金光明寺」と称した。その後弘仁年間(810年~824年)に弘法大師が訪れた際、水不足に困っている村人達の為に井戸を掘られた。井戸から湧き出た水は霊水で「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名を「金泉寺」と改めたという。
金泉寺到着後、お接待を受けた(ジュースを1本頂いた)。確か車で遍路をされている方からだったと思う。
私の背負っている大きなリュックを見て「大変だね~。頑張って」と声を掛けて頂いた。
お接待というと、地元の方からのお気持ちというイメージがあるが、お遍路されている方からのからのお気持ちも頂くことが多かった。
特にツアーバスで周られている方々からすると、大きな荷物を背負って歩いている姿に感じるものがあるらしい。札所で出会うと声を掛けて頂いたり、飲食物を頂いたりすることがよくあった。
ただ、重量のあるもの(ペットボトル飲料や大きな果物等)については、「お気持ちだけ頂きます」とお断りすることもあった(特に旅の前半)。
今振り返ると、せっかくの好意を断わってしまうのはいかがなものかという思いもあるが、当時は荷物が重くて苦労していたので仕方がないとも思う。
(写真は観音堂。源義経が祈願をしたという聖観音が祀(まつ)られている。)
[第4番札所:黒厳山(こくがんざん) 遍照院(へんじょういん) 大日寺]
・御本尊:大日如来
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県板野郡板野町
※別称:黒谷寺(くろたにでら)(三方を山に囲まれ黒谷と呼ばれていた為)
寺伝によると、弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地で修行中に大日如来を感得された。
大師が一刀三礼(一刻み毎に三度礼拝)して1寸8分(約55cm)の大日如来像を彫造し御本尊とされたことを由来として、大日寺と称するようになったという。
3番札所から4番札所に進む間、少し道を間違えてしまった(当時所持していた携帯電話は二つ折りタイプで、ネットで地図を見るというのは当時の自分にとって選択肢に入っていなかった)。
荷物が重いので、少しでも歩く距離を短くしようと近道を選択したつもりが、細い路地で行き止まりになっていた。
結果的に余計な距離を歩くこととなってしまった。急がば回れだ。
大日寺にて、初めて遍路ツアーの団体客に遭遇した。私と同様本日1番札所から始められたと思われ、楽しそうな雰囲気が伝わってきた。
修行=苦行と思いがちだが、人生どのような状況も楽しめるようになりたいものだと思う。その状況を選択したのは自分なのだから。
大きな荷物を背負って辛そうな雰囲気が伝わるのだろう、ツアーの方々にたくさん優しいお声をかけて頂いた。
[第5番札所:無尽山(むじんざん) 荘厳院(しょうごいん) 地蔵寺]
・御本尊:地蔵菩薩(延命地蔵)、胎内仏:地蔵菩薩(勝軍地蔵)
・創建年:(寺伝)弘仁12年(821年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県板野郡板野町
地蔵寺の寺伝によると、嵯峨天皇の勅願により弘仁12年(821年)に弘法大師が開創したとされている。
大師が御本尊として刻んだ勝軍地蔵菩薩は、甲冑(かっちゅう)を身にまとい馬に跨(またが)る姿で高さ一寸八分(約5.5cm)。
後年、紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函(じょうかん)上人が霊木に延命地蔵菩薩を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納めたと伝えられている。
4番札所からの道中、五百羅漢堂の看板を見つけた為、先に立ち寄ることにした。
五百羅漢(堂)は、5番札所地蔵寺の奥の院(番外霊場)とされている(入場料200円(当時))。
そこには多数の仏像が並んでいた(約200体の木造羅漢が安置されているらしい)。(阿)羅漢とは仏の弟子で最高の境地に達した人間のことらしい(修行者の最高位)。
五百羅漢を参拝した後、隣接する地蔵寺へ。
ここでは、大銀杏(イチョウ)(樹齢800年以上)が迎えてくれた。
地蔵寺近辺の雰囲気はとても静かで穏やかだった思い出がある。
この時点で時刻は午後13時半を過ぎていた。到着時にいた団体客はちょうど打ち終えて発つところだった。本日1番札所から始めたお遍路達は皆先に行ったのだろう。
朝は小雨が降っていたが、晴れ間も見えるようになっており、とても心地よかった。
当時デジカメ用に512MBのメモリーカード2枚しか所持しておらず、お遍路を開始してから各札所1枚~数枚程度の写真しか撮影していないが、気持ちよかったのかここでは10枚近く写真を撮影している。
何か達成感のようなものがあり、この日はここで打ち止めにすることにした。
電話で宿の予約をした後、昼食を食べる為水源という定食屋さんに入った。
注文した料理については旅日記に記録し忘れているが美味しかった。しかもお接待ということで料金を100円まけて頂いた。
この日一日だけでも多くの人達からお接待を頂いた。今思い出しても感謝の気持ちが湧き上がってくる。
食事休憩を取ってリフレッシュしたものの、歩き出すとやはり荷物が重い。そのせいか背中や足腰が痛くなっていた。
だが次の宿は6番札所近くにある為、まだ歩かなければならない。
てくてくというよりとぼとぼというペースで歩いていたように思う。
この時歩いていたのは、徳島県道12号鳴門池田線だと思うのだが、ツーリング中と思われるバイカー(数十台)の集団が後方からやって来た(排気音が響くのですぐに分かった)。
集団の先頭を走る男性(リーダー的存在)がこちらを見ている。
すると彼がすれ違いざまに右手を上げた。
その瞬間、後列のメンバー達も一斉に右手を上げて通り過ぎていく。
彼らは歩き遍路である私の為にエールを送ってくれたのだと分かった。無言ではあるが彼らの気持ちを感じた。予想外の行為だったがとても有難かった。
この後、急に足取りが軽くなったように思われ、無事宿に着くことが出来た。
この日宿泊したのは、6番札所安楽寺の約1km程手前にある民宿寿食堂。
1泊2食付で6500円+消費税(当時は消費税5%)で計6825円。
宿代を節約する為にテントを購入したにもかかわらず、初日から宿に泊まっていいのかという思いもあったが、体が慣れていないのでまずはゆっくり休養を取ることが大事と考えての判断だった。
宿には本日結願(88ヶ所巡礼達成)された方が宿泊していた。この後四国別格20霊場を巡るそうだ。
※四国別格20霊場:番外霊場のうち20の寺院が集まって、1968年に四国別格20霊場として創設された。四国88ヶ所霊場に四国別格20霊場を加えると108霊場となり人間の煩悩の数と同じになることから、「百八煩悩消滅のお大師様の道」になるというのがその主旨らしい。
この方にお遍路結願のアドバイスを求めたところ、「テントを家に送り返しなさい」とのことだった。
今振り返ってもその助言は間違っていないと思う。
ただし、限られた予算の中で達成するには多少の無理も必要となる。
当時考えたのは、取り敢えずテント代の元を取るまでは携帯しようということだった。その後家に送り返してもいい(結果的には、最後までテントと共に旅することとなった)。
夕食の後、宿の方に体重計を借りて荷物の重さを計ってみた。
リュック:約13kg、チェストバック(肩掛け用):約1kg、計約14kg。これに食料と水が加わると約15kgとなる。
テントを担いで登山をする方にとっては大した重さではないと思うが、事前のトレーニングも積んでいない自分にとっては結構な重量だった(旅の後半には16、17kgの荷物を担いでも平気になっていたが)。
何とか荷物を減らせないものかとリュックの中身を部屋に広げたまま思案しているうちに眠くなり就寝した。
この日歩いた距離は20kmにも満たないが、睡眠不足のまま重い荷物を背負って歩いたので疲れたのだろう。
初日は、極度の疲労を感じながら人の心の温かさに助けられた一日となった。
(旅した時期:2006年)
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