旅拝

過去の旅の記録です。

西蔵編(19)ラサ郊外(その3)ディグンティ寺(後編)

 翌朝、ディグンティ寺(ディグンティ・ゴンパ)(直貢替寺)( Drigung Monasteryy )の西にある鳥葬場に向かった。
 鳥葬場に着くと既に旅行者達が来ていて、更に人が増えてくる(最終的には20~30名位いたと思う)。ラサ(拉薩)からのツアー客達だ(ランクル(ランドクルーザー)で来ていた)。

 しばらくするとディグンティ寺の小坊主がチケットを持っているか確認に来た。
 無いと伝えるとついて来いと言う。せっかく山を登って来たのにディグンティ寺まで下りる形になったが仕方ない(ラサから持参したポテトチップの袋が気圧の低下によってパンパンに膨れあがっていたので、ここはラサ(3650m)より標高が高いと思われる)。
 ディクンティ寺でチケット(25元(当時のレートで約350円))を購入し、再び鳥葬場に戻ると鳥葬の儀式が既に始まっていた。

 サン(チベット式お香)が焚(た)かれ、僧侶達の読経の声が鳥葬場に響く。亡くなられた方が裕福だったらしく、7、8名の僧侶がいた(僧侶達に支払う金額により、読経する僧侶の人数が変わるらしい)。

 親族(夫婦と子供達)が交替で鳥葬場に横になり、立っている親族によって摸造刀で切られるという寸劇のようなものが始まった(刀は当たっていない)。これから行われる儀式の疑似体験だと思われる。

 その後、ドラム缶位の大きさの箱から太った老人の遺体が無造作に投げ出された。座った体制で死後硬直しているこの方は、先程の子供達のおじいちゃんだと思う。
 私のいた場所からは、置かれた遺体をお尻の方向から見学することとなった。
 自分の目の前にある膨れ上がった老人の尻と陰嚢(いんのう)(俗称:おいなりさん)を眺めながら、日本を発つ時には想像出来なかった光景だ等と思いを巡らせていた(裕福なので太っているのかと思ったが、その理由は死後体内に溜まったガスによるものだということを後で知った)。

 2名の解体師達( rogyapas )が遺体の解体を始めようとしたところ、鳥葬場より100m程上にある山頂付近に待機していたハゲワシ達が遺体周辺に1羽ずつ飛来し始めた。
 1羽が到着するとまた1羽が移動する。自然界のヒエラルキー(階級)を感じた光景だった(100羽位のハゲワシ達が鳥葬場にいたと思われる)。



 解体の様子については記述を控えさせて頂くが、最終的には骨まで砕いてハゲワシの食事にしている。



 情けないことに、視覚・聴覚・嗅覚から入ってくる遺体解体時の情報により、見学中に気持ち悪くなってしまった。
 途中で臭いに耐えられなくなり鼻ををハンカチで覆ったのだが、既に大量の死臭を吸い込んでおり、ハゲワシ達の食事の光景とその音とで参ってしまったのだった。
 朝から何も食べていないが、それでも吐き気がする(嘔吐している見学者もいた)。

 吐きそうになるのを何とか堪(こら)えながら頑張っていたところ、そこに2体目の遺体が運ばれてきた。
 想定外の出来事に私の心は折れてしまった。一旦目を閉じる。

 気持ちを持ち直して再び目を開けた時、ハゲワシ達は待ちきれずに遺体に群がろうとしていた。それを解体師達が追い払いながら解体している。

 これ以上見ていると本当に吐いてしまうと思われた為、その後は解体が終わる頃まで目を閉じていた。
 目を閉じ、鼻をハンカチで塞ぐことにより、入ってくる情報は遺体を啄(ついば)む音だけになった(たまにハゲワシ同士が食事の取り合いで喧嘩しているらしく鳴き声が聞こえた)。



 鳥葬が始まってから観光客の見るに耐えないという表情とは対照的に、親族は目を逸(そ)らすことなく安らかな目をして見ていた。
 そこには誇りを持った澄んだ眼差しがあった。
 故人の成仏人間への転生を確信しているように思える。その姿が印象的だった。



 この後、ツアー客達が乗ってきた車に乗せてもらい、ラサまで戻った。

 後日、ディグンティ寺の鳥葬を見れなくなったと別の旅行者から聞いた。何かトラブルがあったようだ(禁止された写真撮影を行った者がいたのかもしれない)(現在の状況は不明)。

 余談になるが、鳥葬を見学してから2週間位は肉の臭いに敏感になり、肉が食べられなかった。肉の臭いを嗅ぐと鳥葬の光景がフラッシュバックしてしまうのだ。
 だが、不思議なもので一度肉を食べ始めるといつの間にか気にならなくなった(最初は鶏肉から体を慣らしていった)。



チベットにおける鳥葬(チベット語チャトル)(中国語:天葬)について
 チベットにおける一般人の葬儀方法は、鳥葬・火葬・水葬・土葬らしい。

 鳥葬:生物が生きていくのに過酷な環境であるチベットで、最も一般的な葬儀。魂の抜けた肉体を他の生物(ハゲワシ)に分け与えることにより、犯した罪が消えると考えられている。
 火葬:薪の確保が困難な為、高僧等位の高い人物に行われる。但し森林に恵まれた四川省では一般的な葬儀方法とのこと。
 水葬:主に経済的に恵まれない人々に対して行う葬儀方法。地理的にハゲワシが飛来しない地域では一般的な葬儀方法になっている。魂の抜けた肉体を他の生物(魚等)に分け与えることにより、犯した罪が消えると考えられている。
 土葬:寒冷な気候であるチベットでは、土が固くて穴が掘りにくく埋葬した遺体を分解する微生物の働きが鈍い為、土葬は一般的ではない。土葬された人間の魂は成仏及び転生が出来ないと考えられており、主に刑死した重罪人や自殺者が土葬される。また伝染病で亡くなった人も病原体の拡散を防ぐ為土葬にされる。

※鳥葬に関するおまけ記事はこちら



※地図





(旅した時期:2004年)

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西蔵編(18)ラサ郊外(その2)ディグンティ寺(前編)

 ガンデン寺(ガンデン・ゴンパ)(甘丹寺)( Ganden Monastery )シウタン祭タンカ(チベット仏画)開帳を見学した後、メルド・グンカル(墨竹工卡)という街に泊まった(ガンデン寺からバスで約1時間)。

 翌朝メルド・グンカルで食事をした後、ラサ(拉薩)から130km程東に位置するメンバ村(門巴郷)に向かった(バスで約2時間)。
 宿を決めた後、15km程離れたところにあるテルドム(徳仲(忠))温泉(※テルドム:宝の箱の意)に行った。メルド・グンカル、メンバ村の宿にはシャワーが無かったのだが、チベットで温泉に入れると聞いて喜んで出かけることにしたのだった。

 テルドム温泉は、尼寺であるテルドム寺(テルドム・ゴンパ)(徳仲寺)にある。
 地元のチベタン(チベット人)達は服を着たまま入浴していたので、私も下着を身に着けたまま入浴した。
 温かいお湯に浸かるというのはやはり気持ちがいい(但し、標高が高いせいかすぐにのぼせてしまった)。



 バスが通っていない為、テルドム温泉までの移動手段は徒歩がメインだった。帰りは運良く一部区間ラクターに乗せてもらったが、往復6時間歩き続けて疲れてしまった。ようやく夕方にメンバ村に辿り着いた。

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 慌ててディグンティ寺(ディグンティ・ゴンパ)(直貢替寺)( Drigung Monasteryy )を参拝したのだが、既に寺院は閉まっており寺院内部の見学は出来なかった。

 ディグンティ寺はチベット仏教ディグン・カギュ派の総本山で、この年は12年に一度の大祭ということで、チベット中から多くの参拝者が訪れたそうだ(残念ながら大祭期間中に訪問することは出来なかった)。訪問時は、とてもひっそりとしていた。

カギュ派チベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ゲルク派ニンマ派サキャ派)で、宗教実践を重視し在家密教を主眼としている。
 宗祖とされているのはナローパ(?~1040)、ナローパの弟子ティローパ(988~1069)とマルパ(1012~1097)、マルパの弟子ミラレパ(1052~1135)で、ミラレパの弟子ガムポパ(タクポ・ラジェ)(1079~1153)によって大成された。
 密教への傾斜が強いカギュ派には様々な分派があるが、宗教詩人ミラレパがカギュ派全体のシンボルとなっている。
 このうち、カルマ・カギュ派転生活仏制度(転生ラマ)を創始しており、これは後にゲルク派(チベット仏教最大勢力)やその他の宗派にも採り入れられることとなった。
 また、カギュ派ニンマ派サキャ派と共に紅帽派・古派と呼ばれている(ゲルク派黄帽派・新派・改革派と称される)。

※ディグン・カギュ派カギュ派の支派の一つで、ドルジェ・ギェルポ(ガムポパの弟子)(1110~1170)の弟子ジクテン・ゴンポ(リンチェン・ベル)(1143~1217)に始まる。
 ディグン・カギュ派の僧達はチベット各地で修行場を開いたことで知られている。

 ディグンティ寺は、1167年ミニャク・ゴムリン(生没年不詳)によって修行場として創建され、1197年にジクテン・ゴンポが僧院として発展させた。
 13世紀にチベットに勢力を伸ばしていたモンゴルのフ(ク)ビライ(1215~1294)により僧院は破壊された。その後も中国政府の弾圧を受けているが、現在は再興している。

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 この街で仲良くなったチベタンは、「ディグンティ寺には、密教の修行をして空中を歩けるようになった僧侶がいる」と言っていたが、真偽の程は不明。



 寺院内部の見学は出来なかったが、ここに来た主な目的は鳥葬を見学することだった。
 ラサで会った旅人の話を聞いて一度見ておきたいと思ったのだ。



※地図





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西蔵編(17)ラサ郊外(その1)ガンデン寺

 今回より、ラサ(拉薩)郊外を訪問した記事をUPしたいと思う。



 ラサに到着してから数日後に、ガンデン寺(ガンデン・ゴンパ)(甘丹寺)( Ganden Monastery )シウタン祭(セタン祭)タンカ(チベット仏画)開帳を見学している。
 シウタン祭は、チベット暦(陰暦)の6月15日に行われる(開催時期はショトン祭(雪頓祭)より早い)。

※シウタン(セタン)とは、「シルクの仏画の意。

 ガンデン寺は15世紀にツォンカパ(ジェ・リンポチェ)(1357~1419)によって創建された。
 ゲルク派(黄帽派)六大寺院の総本山、ラサ三大寺院の一つ。

ゲルク派とは、チベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ニンマ派カギュ派サキャ派)。15世紀にツォンカパによって開かれた学派で、戒律を重視している。戒律を守っていることを示す黄色い帽子を被っていた為、黄帽派と云われた。17世紀にチベット最大勢力となり、ダライ・ラマパンチェン・ラマもこの学派に属する。
 ちなみに、ガンデン寺の座主「ガンデン・ティパ」はゲルク派の教主を意味し、ダライ・ラマパンチェン・ラマに次ぐチベットNo.3のポストになる。

 ガンデン寺は、ラサ(拉薩)から50km程東に位置し(バスで所要2時間)、ワンブル(旺波日)山の山頂付近(標高4200m)に建てられている。
 最盛期は数千人規模の僧侶が修行に励んでいたが、中国政府の弾圧によりその多くがインドに亡命し、現在の僧侶の数はかつての1/10以下になっている。

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 普段は静かな寺院だと思うが、シウタン祭の時には大勢の人達で賑わっていた。

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 タンカはセルドゥン・ラカン(ツォンカパ霊塔殿)でお披露目される。
 以下、タンカ開帳の様子を写真で紹介したい。

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※地図





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おまけ(その4)同調の話

西蔵編(16)ラサ(その9)ラサの思い出のおまけ記事



 以前に旅のブログを書いたことがあり、その時気付いたことがある。

 過去の自分には同調しやすいのだ。

 ブログを書く為に旅日記を読み返すことにより、過去の自分に意識を向ける。
 体調が悪い時の状況を思い出した場合、現在の自分の体調も悪くなるといった感じだ(お腹を下す等)。

 (楽しい時に人は笑うが、笑うことにより楽しくなることも出来る。人間の脳は様々な状況を作り出すことが可能だ。)



 余談になるが、経営者の方から聞いた話を一つ紹介したい。

 その方は若かりし頃独立して事業を始めた。
 しばらくは業績が順調だったが、その後経営が傾いてしまったらしく、信頼関係を築いていると信じていた人達は皆離れていき、人間不信に陥り自殺まで考えたそうだ。
 その時自分を救ってくれたのは過去に自身が書いたブログ記事の言葉だったそうだ(その方は毎日のように記事を更新されており、日々前向きな言葉を書き綴っていたらしい)。
 過去の自分自身の言葉にエネルギーをもらい、諦めることなく前へ進むことが出来て業績も回復したとのこと。



 今回ブログを書くにあたり、過去の自分に同調するリスクは承知していたが、実際に高山病に似た症状(頭痛)が現れた(症状が出始めた頃に書いていた記事はこちら)(その後しばらくして頭痛の症状は改善している。ちなみに、コロナ流行後は毎日2回検温と脈拍測定を行っているが、頭痛以外に特に問題は起きていない)。

 しかも、先日奥歯の詰め物が取れてしまった。詰め物が取れたのは5年~10年ぶり位だと思われる。
 奇妙なシンクロだ(偶然と言えばそれまでだが)。他にも当時と同じような出来事が続けて起きていて不思議に感じている(自分以外の周囲の人に起きた)。



 (以下、このブログの趣旨から更に外れてしまう為、読みたい方のみ先に進んでください。)



 話が脱線するが、人は時空間を超えて意識を向ける+意識を飛ばすことにより、過去・未来の情報を得ることが出来ると思う(感度が重要になってくる)。



 過去について。かつて自分が訪れた場所を再訪した際に、当時の記憶がまざまざと蘇ってくるという経験はないだろうか。
 その場に残っているエネルギー(残留思念)を感じ取っているだけではなく、過去の自分にリンクしている可能性があると思う。

 また過去だけでなく未来にも意識を飛ばすことが出来るのではないかと思う(その未来は無数に存在するコピー宇宙、並行世界(パラレルワールド)かもしれないが)。



 タイムマシンというものが将来発明されるか分からないが、過去・未来に辿り着く前提条件として、その時の(宇宙空間における)地球の座標というものが重要だと思われる。

 根拠を示すことも出来ないし、あくまで個人の見解だが、時間は連続していない

 アニメーション動画を作る際、連続する静止画を作成し、つなげることにより動く映像にしている。
 それと同じように無数の一瞬(刹那)をつなげて捉えることにより、あたかも時間が存在しているように見えるのではないかと思う。
 そして、その一瞬一瞬には様々な情報が記録されていると思う(例えば、一人ひとりの思考・感情のエネルギー等)。

 太陽暦は、地球と太陽の位置関係を元に作られている。従って現在の地球と太陽の位置関係と一年前のそれには大きな差は無い。
 しかし、太陽系自体が銀河の中心に対して長い年月をかけて周回している為、銀河系における地球の位置は一年前と比べて移動している。
 更に、銀河系が銀河団銀河団が超銀河団の構成要素の一つと言われており、宇宙は膨張し続けている。

 タイムマシンで移動する為には、この膨張し続ける宇宙における正確な地球の座標を把握することが必須条件となるのではないだろうか。
 物理的な移動は難しかったとしても、過去・未来の地球を観測することにより情報を得ることが出来る時代が来るかもしれない。

 繰り返しになるが、タイムマシンを使わなくても過去・未来に意識を向ける+意識を飛ばすことにより、同調して情報を得ることが出来ると思う(但し、情報量を増やす為には受信者の感度を上げることが重要だと思われる)。



 (以下、追記(2020年10月12日))

 夢について書き忘れていたことがあったので追記させて頂く。

 その日見た夢思い浮かんだ言葉等を旅日記に記録しているが、旅に出ていない時でも夢日記を書くようになってから10年以上経過している。



 まず、夢についての自分の意見・考えを書き記しておきたい。

(1)夢は目覚めてすぐに記録しないと内容を忘れてしまう。重要だと思った場合は眠気に打ち勝って記録しているが、眠気に負けて詳細を忘れることも多々ある。

(2)睡眠中に幾つも夢を見ているが、記録しているのは目覚めた直前に見ていた夢のことが多い(忘れてしまう為)。

(3)夢の解釈については、夢分析の本等読まずに自分なりの解釈をしている(自分で見た夢なので自分が納得すればよいと思っている)。意味不明で理解出来ない内容だった場合は、夢の内容だけ記録し分析は行わない(後で夢の意味が判明することもある)。

(4)夢には幾つかの種類・系統がある。



 上記(4)について一つの例を挙げたい。

 めったに見ない種類の夢だが、非常に興味深い夢がある。
 それは、過去の体験をリピート再生する夢だ。
 但し、自分は場面を上から俯瞰(ふかん)して見ており、全ての登場人物の思考・感情が手に取るように分かる。

 それは大抵(たいてい)私が登場人物の一人と口約束を結ぶ場面の夢なのだが、実際にあった過去の出来事として、その後口約束を結んだ相手から約束を反故(ほご)にされている。

※夢の中では口約束を結んだ相手の思考・感情が読める為、何故後で約束を破ったのか理解出来る。

 夢を見た後に思い出すのだが、実は過去の実際の場面でも相手の言動に対して違和感を感じている(「ああ、そういえば」という形で思い出す)。それは非言語コミュニケーション(表情、声のトーン・抑揚、姿勢、醸(かも)し出す雰囲気等)によるものだろう。
 しかし、お人好(よ)しの自分は感じた違和感を無視して、相手の言葉を信じて騙されていた。



 結末の分かっている映画を再度見るような夢を何故見たのか、それは夢を見た当時同じような危険が身近に迫っていたからなのかもしれない。
 最近は上記の類(たぐい)の夢を見る機会が少なくなった。少しは人間的に成長したからだろうか。



 上記の夢に関して二つの可能性を考えた。

(A)脳が過去の状況(登場人物の思考・感情を含む)を全て記憶しており、夢でリピートしている

(B)夢の中で過去に意識を向けリンクしている

※どういう仕組みでこの夢を見たのか分からないが、個人的には(B)の説を推(お)したい。





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西蔵編(16)ラサ(その9)ラサの思い出

 ラサ(拉薩( Lhasa ))での思い出について。



 まずはラサ滞在中に(市内)観光した場所を列記したい。

チャムパ・ラカン
 バルコル(八廓街、八角街)(ジョカンの周囲をぐるりと巡る道)の内側に位置する弥勒堂。

ムル・ニンパ(木如寧巴)
 バルコル内側に位置する。9世紀にラルパチェン(レルパチェン)王(802~836)(吐蕃国)が創建。

マニ・ラカン
 バルコル内側に位置する。

アニ・ツァングン(倉姑寺)
 ラサ三大尼僧院の一つ(他は、ドゥプトプ・ラカンチュプサン・ゴンパ)。
 ここで会った尼さんの話では、104名の尼さんがいるとのこと(当時)。
 尼さん達から写真撮影をせがまれた。

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ギュメ・タツァン(下蜜院)
 ラサ二大密教寺院の一つ(他は、ギュトゥ・タツァン)。

ムル・ゴンパ(木如寺)
 9世紀にラルパチェン王が創建。
 現在は経典の印刷を行っている。

テンゲェリン・ゴンパ(丹杰林寺)
 かつて権勢を誇ったラサ四大寺院(リン・シ)の一つ(他は、ツェムリン・ゴンパクンデリン・ゴンパツェチョリン・ゴンパ)。

ゾンキョ・ルカン(宗角禄康)
 ポタラ宮北側の公園。

葯(薬)王山
 ポタラ宮の南西にある山。ポタラ宮観景台が作られ、ポタラ宮の撮影スポットとなっている。
 山の南西側に摩崖石刻と呼ばれる石刻群があり、参拝者が訪れていた。

タクラルプク寺(査拉魯普(岩)寺)
 薬王山の南東にある洞窟寺。

クンデリン・ゴンパ(功徳林寺)
 かつて権勢を誇ったラサ四大寺院(リン・シ)の一つ(他は、ツェムリン・ゴンパ、テンギェリン・ゴンパ、ツェチョリン・ゴンパ)。

リクスム・ゴンボ南寺
 ジョカンの南に位置する。

ラプセル・ツェンカン
 ジョカンの南に位置する。

ネチェン・ゴンパ
 デプン寺の下方に位置する。
 ダライ・ラマ政権下で神託を行ったネチェン・クテン(神託官、シャーマン)がいた寺院。神託官達はダライ・ラマ14世(1935~)と共にインドに亡命したらしい。

西蔵博物館
 ノルブリンカの隣にある博物館。
 チベットの歴史、文化、宗教、美術について知ることが出来る。

西蔵民族油画工作室
 西蔵に住む人々をモチーフ(題材)にした絵に感銘を受けた。

・(期間限定)遊園地
 夏の期間のみ開催していたと思われる。出張遊園地。
 小さな観覧車に乗車した(5元)。

チベタンフードレストラン
 ディナーの時に、チベットの民族舞踊を観劇出来た。

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チベタン(チベット人)歌手、ダンスユニットのパフォーマンス鑑賞
 どのホテルか忘れたが、イベントを開催していた。チベットの若者の流行を知ることが出来た。



 以下、観光以外の思い出。

メンツィカン(蔵医院)
 チベット医学による診療及び暦(チベット暦)づくりを行う医院で見学も可能だが、私の場合治療の為訪れている(内科:風邪(咳)の為薬を処方、歯科:奥歯の詰め物が取れた為治療)。

※余談になるが、先日奥歯の詰め物が取れた(⇒おまけ記事はこちら)。

・サッカーアジアカップ観戦(開催国:中国)
 準々決勝 VSヨルダン 1-1 PK4-3
 準決勝 VSバーレーン 4-3
 決勝 VS中国 3-1 ※日本が優勝

 いつもはサービス満点の中華食堂で夕食を取っていたが、日本代表戦がある時のみTVのある食堂で食事をしていた。
 決勝戦の日、相手は地元中国ということで周囲の中国人を怒らせないよう、日本人旅行者は気配を消しながら応援していた。
 日本に負けた後、中国のTV局のアナウンサー(解説者かもしれない)が日本の蔑称を口走っていた。日本の放送で同じことをしたら大問題になっていると思う。

チベットの若者達
 旅行者の一人より、地元の若者達を紹介された。街を散策している時に出会ったらしい。
 彼らは、ダライ・ラマ14世を慕ってインドに亡命したらしい。しかし、祖国を思いチベットに帰って来たとのこと(不法出国したということで刑務所に2年服役していたそうだ)。
 いざ帰国したものの、商売上手の中国人が増えたチベットでは仕事も無く、ただ毎日時間が過ぎていくだけとのことだった。
 澄んだ瞳が印象的だった彼らは、その後どうしているだろうか。



※地図





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西蔵編(15)ラサ(その8)ノルブリンカ

 ショト(ゥ)ン祭(雪頓祭)期間中、ノルブリンカ( Norbulingka )(羅布林卡)(世界遺産)を訪問している(「ノルブ」は、「リンカ」は庭園の意)。

※ショト(ゥ)ン祭とはチベット最大の祭りであり、チベット語「ヨーグルト祭り」という意味。「ショ」はヨーグルト、「トゥン」は宴・祭りの意。
 「ヤルネ」という一定期間境内に閉じこもる修行の解禁日に、ヨーグルトを用意して僧侶を出迎えたのがショトン祭の起源と言われている。
 チベット暦(陰暦)の6月30日の早朝にデプン寺(デプン・ゴンパ)(哲蚌寺)( Drepung Monastery )(ゲルク派(黄帽派)六大寺院、ラサ(拉薩)三大寺院の一つ)のタンカ(チベット仏画)開帳で幕を開け、約1週間祭りは続く。

ゲルク派とは、チベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ニンマ派カギュ派サキャ派)。15世紀にツォンカパ(ジェ・リンポチェ)(1357~1419)によって開かれた学派で、戒律を重視している。戒律を守っていることを示す黄色い帽子を被っていた為、黄帽派と云われた。17世紀にチベット最大勢力となり、ダライ・ラマパンチェン・ラマもこの学派に属する。

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 ノルブリンカは1755年、ダライ・ラマ7世(1708~1757)により建てられ、法王の夏の離宮としての役割を果たしていた。庭園内には歴代法王の建てた幾つもの離宮がある。
 1959年3月のチベット蜂起の際、ダライ・ラマ14世(1935~)の脱出・亡命の舞台になった場所でもある。



 ショトン祭の期間中、チベット中から集まった劇団によるアチェ・ラモ(チベタン・オペラ)が上演される(日本の紅白歌合戦のような一大イベントだと思われる)。

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 残念ながら、言葉が分からない為雰囲気しか味わえなかったのだが、チベタン(チベット人)の観客達はとても楽しそうだった。

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※地図





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西蔵編(14)ラサ(その7)デプン寺

 ゲルク派(黄帽派)六大寺院ラサ(拉薩)三大寺院の一つであるデプン寺(デプン・ゴンパ)(哲蚌寺)( Drepung Monastery )には2回訪問・参拝している。

ゲルク派とは、チベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ニンマ派カギュ派サキャ派)。15世紀にツォンカパ(ジェ・リンポチェ)(1357~1419)によって開かれた学派で、戒律を重視している。戒律を守っていることを示す黄色い帽子を被っていた為、黄帽派と云われた。17世紀にチベット最大勢力となり、ダライ・ラマパンチェン・ラマもこの学派に属する。

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 デプン寺は、1416年にゲルク派の開祖ツォンカパの弟子ジャムヤン・ジェチェ(1397~1449)によって創建された20万㎡を超えるチベット最大の寺院で、最盛期には1万人を超える僧侶が修行に励んでいたが、中国政府の弾圧後僧侶の数はかつての1/10以下になってしまった。
 17世紀にダライ・ラマ5世(1617~1682)がポタラ宮へ居を移すまで、敷地内にあるガンデン・ポタンが法王の寝殿であり、歴代法王はこの地で修行を積まれている。



 初回訪問時はとてもひっそりとしていて、かつて栄華を誇ったことが信じられなかったが、ショト(ゥ)ン祭(雪頓祭)の時には、当時の勢いを感じることが出来た。

※ショト(ゥ)ン祭とはチベット最大の祭りであり、チベット語「ヨーグルト祭り」という意味。「ショ」はヨーグルト、「トゥン」は宴・祭りの意。
 「ヤルネ」という一定期間境内に閉じこもる修行の解禁日に、ヨーグルトを用意して僧侶を出迎えたのがショトン祭の起源と言われている。
 チベット暦(陰暦)の6月30日の早朝にデプン寺のタンカ(チベット仏画)開帳で幕を開け、約1週間祭りは続く。

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 祭りの日は朝から殺気すら感じる程の人混みでなかなか先に進めなかった。
 それでも敷地内を移動しながら写真を撮影したので紹介させて頂く。

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※地図





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