旅拝

過去の旅の記録です。

おまけ(その5)メメント・モリ

西蔵編(19)ラサ郊外(その3)ディグンティ寺(後編)のおまけ記事



 鳥葬を見学した日の旅日記を読み返したところ、以下の記録が残っていた。

(1)睡眠中に藤原新也さん(作家・写真家)の面接を受ける夢を見た旨を記している(夢の詳細は不明)

(2)この日は私の祖父の命日だった



(1)について

 藤原新也さんは好きな作家で、その著作を愛読していた。
 鳥葬を見学する前に以前読んだメメント・モリ(情報センター出版局刊)を思い出したのかもしれない(『メメント・モリ』は現在、朝日新聞出版より復刊されている)

※本の副題(サブ・タイトル):Mémento-Mori 死を想え

メメント・モリとはラテン語「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」「死を忘るなかれ」という意味の警句(Wikipediaより)。



 (『メメント・モリ』より以下一部を抜粋させて頂く。)

本当の死が見えないと、本当の生も生きれない。等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならない。
死は生の水準器のようなもの。
死は生のアリバイである。

MÉMENTO-MORI

この言葉は、ペストが蔓延(はこび)り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。その言葉の傘の下には、わたしのこれまでの生と死に関するささやかな経験と実感がある。



(2)について

 鳥葬場で祖父の体が解体される様子を見ていた子供達の真っ直ぐな眼差しを思い出す。
 もしあの場で私の祖父が解体されていたとしたら、私は目を逸(そ)らすことなく最後まで見ていただろうか。

 こういった奇妙な偶然の出来事が起きた場合、そこに何か意味があるのではないかと考えるのが習慣になっている(納得出来るだけの意味が見つからないこともあるが)。



 死を想うことは生を想うことに通じる。
 私の祖父は東京大空襲を経験しており、地獄絵図のような状況の中を生き延びた一人だ(もし空襲で亡くなっていたら、今私はここにいない)。

 祖父が生きている間にもっとたくさん話をしておけば良かったと思う。
 旅日記を読み返して思うのは、祖父に感謝したいということだ。
 自分の人生は、土台となる多くの先祖達の人生によって支えられている。



 生の中にすでに死は存在する。だからこそ、今を精一杯生きるべきだ。
 (このブログを始めなければ、旅日記を読み返すこともなかったので、大切なことを思い出す良いきっかけになったと思う。)





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