旅拝

過去の旅の記録です。

四国巡礼編(1)プロローグ

 新年明けましておめでとうございます。
 昨年ご訪問頂いた皆様に心より感謝申し上げます。
 今年もよろしくお願いします。

 それでは以下、四国巡礼編です。



 チベットを旅した後、日常の生活に埋もれていく中、ふと巡礼者たちのひたむきな姿が憧憬となって脳裏に蘇る。
 あの時の感動を再び体験したいという気持ちがむくむくと湧き上がってきた。
 この日本という国で、巡礼者になれる場所といえば真っ先に思い浮かぶのが四国だ。そうだ四国へ行こう。
 2006年、四国遍路の資金を貯め旅を始めることにした。



 四国遍路に出発する前に新たに購入したもの。

※アウトドア用品は、登山用品店が立ち並ぶ神田神保町・小川町(東京都千代田区)近辺で買い揃えた。

・リュック(バックパック):大き目のサイズを購入(最大容量55ℓ)。

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・テント:登山用品店を色々巡ったが最終的にニッピン神田店で購入。値段が3万円以上と当初の予算を越えていたが、1人用で軽量タイプのものが欲しかった為、品質に納得して購入した。

・寝袋(シェラフ):羽毛タイプで軽量のものを購入。

・エアーマット:軽量化の為、上半身用を購入。テント泊時に空気を入れて利用した。

・ヘッドライト:テント泊目的で購入したが、日没後や山道で使用することもあった。

・ガスバーナー:山岳用のものではなく、百均やホームセンターで販売しているガスボンベを使用するタイプを購入。

・チタンクッカー:蓋が鍋になるが、ほとんど使用せず。主にお湯を沸かす為に使用。

・水筒:プラスチックボトル(1ℓ)を購入。

・チェストバック(肩掛け用):B5サイズの書籍・ノートが入るサイズのもの。地図や納経帳、納め札、経本(般若心経)等を入れるのに使用。

・衣類:速乾性を重視し、ナイロン製のものをメインに購入。靴下に関しては五本指ソックスがお勧め(通常の靴下の場合、足が蒸(む)れてマメが出来やすくなる為)。

・雨具:ポンチョ(背負ったリュックごと雨から守ることが可能)を購入。

・靴:ウォーキングシューズ(スニーカー)を購入。この旅で寿命を終えた。
 歩き遍路の中にはトレッキングシューズを使用されている方もいた。
 舗装された道路、へんろ路(山道)どちらを主に歩くかにもよるが、私は舗装道路メインということでウォーキングシューズを使用した。

・デジカメ(コンパクトデジタルカメラ):秋葉原(東京都千代田区)の家電量販店で初めてデジカメなるものを購入した。512MBのメモリーカード2枚と自撮り用の小型三脚も購入。

※四国遍路(2006年)以前の旅についてはフィルムカメラで写真を撮影している。
 かつては所持しているプリンタ付属のフィルムスキャンの機能を活用していたが、現在使用しているPC(Windows10)対応のプリンタドライバが無い為、ブログ記事に写真をUPする為には何か手段を構築しなければならない(まだスキャンしていない写真が多数有)。

※書籍(四国に携行)は、下記3冊。八重洲ブックセンター本店(東京都中央区)で購入。

『四国遍路ひとり歩き同行二人』[地図編]と[解説編](へんろみち保存協力会刊)

※当時、ネット(携帯電話を利用)で情報を収集することに慣れていなかった私にとって上記2冊(特に[地図編])は必需品だった。

『四国お遍路バックパッキング』(ホーボージュン(編)、BE-PAL編集部(編)、茶山浩(写真)、小学館刊)

※『四国お遍路バックパッキング』は、現在中古でしか手に入らないようだが、四国遍路を検討される方には、是非ご一読頂きたい一冊だ。新書サイズで携帯しやすい。





(旅した時期:2006年)

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おまけ(その11)不思議な縁の話

西蔵編(40)台北~基隆~石垣島~宮古島~那覇のおまけ記事



 上記の記事を書くにあたり田中綱常氏について調べたところ、エルトゥールル号遭難事件に辿り着いた。
 この時、私がかつて紀伊大島に行ったことがあることを思い出した。
 旅をした当時は旅日記を付けておらず写真も撮っていない為、記憶を辿るしかないが、記録の意味で書き記しておきたいと思う。



 私にとっての初めての一人旅は学生時代の国内旅行(関西)だった。
 一人旅をするにあたり、まず大阪を見たいと思った。(建前ではなく)本音をぶつける人情味のある街、そして美味しいものが食べられる街として興味があったのだと思う(勝手な先入観だが)。
 1週間程の旅行だが、大阪を拠点にして周辺地域を観光している。
 
 確か最初は難波(なんば)(大阪市中央区)周辺のカプセルホテルに泊まったと思う。周囲のいびきがうるさくて眠れなかった為、1、2泊した後に宿を移動している。
 当時はネットも無かった為、観光案内所でホテルを紹介してもらい、天王寺(大阪市天王寺区)のビジネスホテルに残りの期間宿泊した。

 大阪で観光したのは、梅田(大阪市北区)(ショッピンング街を散策)、道頓堀(どうとんぼり)(大阪市中央区)(食べ歩き)、四天王寺(大阪市天王寺区)、通天閣(大阪市浪速(なにわ)区)、万博記念公園(吹田(すいた)市)等。
 大阪城(大阪市中央区)にも行った気がするが記憶が定かではない。

 期待に違(たが)わず、大阪は人情味溢(あふ)れる楽しい街だった。



 大阪以外に訪問したのは下記の通り。

比叡山(滋賀県大津市)
 参拝したか記憶が曖昧(あいまい)だが、中国出発前に参拝した際、以前来たことがあると感じた(前世の記憶かもしれないし、気のせいかもしれない)。

吉野(奈良県吉野郡吉野町)
 金峯山寺(きんぷせんじ)や吉野神宮を参拝。

 後年吉野訪問3、4回目の時に、吉野神宮で出会った1冊の書籍を購入している。
 その書籍の名前は、南朝関係 十五神社巡拝案内記』(建武中興十五社会刊)といい、御朱印帳付の本だ。
 後にこの本を手にしながら日本全国を巡って建武中興十五社を全て参拝することになるとは、この初回訪問時には全く想像出来なかった。

建武中興十五社:建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社。

※『南朝関係 十五神社巡拝案内記』の紹介HPはこちら

根来寺(ねごろじ)(和歌山県岩出市)

高野山(和歌山県伊都(いと)郡高野町)
 後に、自分が四国遍路をすることになるとは、この時には全く想像出来なかった。

紀伊大島(和歌山県牟婁(むろ)郡串本町)
 購入したガイドブック紀州路』(弘済出版社刊)の紹介記事を読んで訪問を決意。
 きっかけとなった記事を引用させて頂く。



 【伝説の遊女が眠る】

 波荒き熊野灘にあって、串本や大島は天然の良港である。
 江戸時代、帆船(はんせん)時代を象徴する千石船も帆を休め、港は賑わった。
 船乗りたちを迎えたのは大島の遊女たちである。
 遊女屋のひとつ「佐吉」にお雪という美人がいた。
 「大島水谷かかりし船は お雪見たさの潮がかり」(串本節)と海の男たちに歌わせたほどの美貌という。
 そのお雪は、大島港を見下ろす蓮生寺(れんしょうじ)に眠っている。
 墓標に「妙艶信女」と刻む。
 海の男を見守るように、今も立つ。


 
 JRみどりの窓口南紀(紀伊半島南部)の周遊券を購入し、特急の自由席を利用して串本へ(天王寺駅から串本駅まで特急で約3時間かかる)。
 当時はくしもと大橋が出来ていなかった為、串本から紀伊大島までフェリーで渡ったのを覚えている。

 島の西側にある蓮生寺に行き、お雪のお墓に手を合わせた(お墓参りが済むとすぐに大阪に引き返した)。
 何故お雪のお墓詣りに行ったのか今でも理由が分からない。その名前の響きに憧れたからなのか、前世での縁を感じたからなのか。
 ただ勝手な想像だが、魂のレベルでは、時間とお金をかけてわざわざ訪問した理由を知っていると思う。
 
 ちなみに、このガイドブックにもエルトゥールル号遭難事件についての記事があった(遭難したエルトグルル号と記載有)。
 エルトゥールル号遭難事件については、学校の授業(歴史か道徳だったと思う)で教わっていた為、紀伊大島訪問当時概要は知っていた。
 但し、イラン・イラク戦争の時のトルコ政府の恩返しとの関連については知らなかったように思う(知ったのはもっと後になってからだった)。
 いずれにせよ、島の東側にあるトルコ記念館は訪問していない。大阪からの日帰り旅行で来ていた為、帰りの電車の時間を気にしていたのかもしれない。

 後に東龍宮宮司( shi )さんと会うことになるとは、この時は想像も出来なかった。
 もし、この時トルコ記念館を訪問してエルトゥールル号遭難事件についてもっと勉強していたら、田中綱常氏について石さんと語り合うことが出来たかもしれない。



 最後に余談になるが、昔見たTV番組の話を書き記しておきたい。

 どこの国の話か忘れてしまったが、子供の誕生日のプレゼントとして沢山のおもちゃの中から一つを選ばせていた。何を選ぶかでその子の将来の職業を占うそうだ。

 自分が「何気なく」選んだものが実は前世からの縁があったという仮説は、個人的にはあり得る話だと思っている。
 
 一つ例を挙げたい。

 今でこそ、出かけた際に(気付いたこと等)メモする習慣が付いているが、若い頃はメモをしなかった為、記憶だけが頼りだった。
 その為、旅先でたまたま入ったお店で食事をしている時に、昔同じお店で食事したことを思い出すということもある(食事をするまで、過去に同じ食堂に立ち寄っていたことを忘れていたというケース)。
 付近に多くの食堂があるにもかかわらず、その店を2回も「何となく」選んだのは、雰囲気・フィーリングが合ったという一言で片付けることも出来るが、私の場合(前世からの)縁があるのだろうと考えるようにしている。その方が楽しくなるからだ。





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西蔵編(40)台北~基隆~石垣島~宮古島~那覇

 台北に1泊し急ぎ足で観光した後、夕方の列車で基隆(きりゅう)( Ji Long )(キールン)(かつての名称は「鶏籠」(発音同じ))に向かった(所要50分)。
 バスだと台北から始発があり座れたのだが、列車が好きなので座れなくても苦にならなかった。

 通勤客が多い車中で、ある女性に突然話しかけられた。
 その女性の名前は東龍宮宮司( shi )卉栒( dan hui )さんだった。基隆に分壇(分堂)があるとのこと。
 東龍宮は、日本の明治時代の海軍軍人・貴族院議員田中綱常(つなつね)氏(1842~1903)を神様として祀(まつ)っているそうだ(情けない話だが、氏のことをこの時初めて知った)。



 田中綱常氏について調べてみた。
 田中綱常は薩摩藩出身の軍人・政治家で、最終階級は海軍少将。
 海軍「比叡」艦長時代、エルトゥールル号遭難事件にて救助された乗組員を母国(オスマン帝国)まで送り届け、オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世(1842~1918)より勲章を下賜(かし)された。



エルトゥールル号遭難事件について

 1890年9月16日、紀伊大島(和歌山県)の樫野崎(かしのざき)東方海上にて、オスマン帝国海軍軍艦エルトゥールル号が台風に遭遇し、船甲羅(ふなごうら)岩礁に激突、遭難した。
 600名以上の乗船者のうち、587名が殉職、生存者69名という大海難事故となったが、紀伊大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたった。
 知らせを聞いた明治天皇は政府に援助を指示し、各新聞は衝撃的なニュースとして伝えた。その結果、日本全国から多くの義金、物資が届いた。
 69名の生存者は神戸で治療を受けた後、「比叡」、「金剛」の2隻の日本海軍の軍艦に分乗し、翌年1月2日、無事イスタンブールに到着。トルコ(オスマン帝国)国民の心からの感謝に迎えられた。

 この話には続きがある。

 1985年のイラン・イラク戦争において、イラク「イラン上空の航空機について、48時間後から無差別に攻撃する」と宣言。
 当時の日本の法律では自衛隊による在外邦人救援が出来ず、日本で唯一国際線を運航していた日本航空「安全の保証がされない限り臨時便は出さない」と判断。
 日本国大使がトルコ国大使にこの窮状を訴えたところ、トルコ航空はイランへの救援旅客機を2機に増便し、タイムリミットの僅(わず)か1時間前に215名の日本人全員がトルコのアタテュルク国際空港経由で無事に日本へ帰国出来た(日本人の為にトルコ人は陸路でトルコに帰国したそうだ)。

 後になってトルコ航空が助けに来てくれた理由が判明した。

 (前駐日トルコ大使:ネジアティ・ウトカン氏談)
 エルトゥールル号の遭難事故に際しての日本人の献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子供達でさえ、エルトゥールル号事件を知っています。今の日本人が知らないだけです。(恩を返す為)テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

串本町(和歌山県牟婁(むろ)郡)HPでのエルトゥールル号遭難事件紹介記事はこちら

エルトゥールル号遭難事件は海難1890というタイトルで映画化されているようだ(東映のHPはこちら)

エルトゥールル号遭難事件の起きた紀伊大島のおまけ記事はこちら



 田中綱常は日清戦争後、台湾総督府民生局事務官、澎湖(ほうこ)列島行政庁長官、台北県知事を歴任。その後日本で貴族院議員に勅選され、死去するまで在任した。



 後年、台湾在住の女性石羅界宮主が夢枕に現れた田中綱常のお告げを聞き、東龍宮を建立したそうだ(石羅界さんと石卉栒さんはご家族かもしれないが、旅日記に記録が無い為関係性は不明)。

日本台湾学会HPでの紹介記事(タイトル:田中綱常から田中将軍への人神変質)はこちら

※現地の東龍宮紹介記事(台湾語のHP)はこちら



 基龍駅は基隆港の目の前にあり、沖縄行きのフェリーターミナルまでは歩いて10分程だった。

 基隆の街は、「雨港」と呼ばれるほど雨の多い街で、年間200日以上雨が降るそうだ。
 特に10月から4月にかけては毎日のように雨が降ると言われている。
 歴史的にも古い街で、豊臣秀吉の使者や、アメリカのペリー提督も寄港している。


 沖縄行きのフェリー(クルーズフェリー飛龍、現在運行中止)は22時半発だった。

 船中には、沖縄から出張に来ているビジネスマンの方もいた。
 自分の想像以上に沖縄と台湾の結び付きは強いと感じた。

 余談になるが、昔旅先で出会った沖縄の離島出身の旅人(日本人)は、標準語を話せなかったが台湾語を話すことが出来たことを思い出した。
 また、沖縄の漁船が台湾の海賊に拉致されることもあるらしい。



 本来は那覇まで直行という話だったが、フェリーは翌朝6時半に石垣島に寄港した。
 ここで友人に再会している(電話したら石垣港まで来てくれたのでお土産を渡した)。目がキラキラしていると言われたが、チベットで出会った人達に感化されたのだと思う(残念ながらその後私の瞳の輝きは失われてしまったが)。

 当初の旅のプランではチベット帰りに沖縄で暮らすことも検討していた。
 石垣島で下船することも出来たが、那覇までの切符が無駄になる為、友人にまた来ると伝えてこのまま帰ることにした。



 その後、10時に宮古島(平良港(ひららこう))に寄港し、22時半まで滞在。
 宮古島ではバスと徒歩で島内を観光している(那覇前浜を観光)。歩いていると途中地元のおじさんがトラックに乗せてくれた。
 他には宮古そばを食べたこと、大きなお墓に驚いたこと等を旅日記に書き記している。



 そして翌朝6時半に那覇(那覇港)に到着。
 この日、ラサ(拉薩)から送った荷物が実家に届いたという連絡を受けた(帰国日が重なるシンクロが起きている)。
 那覇には2泊3日滞在している。観光したのは下記の通り。

首里城公園(世界遺産)
 かつて琉球を統一した中山(ちゅうざん)王国の居城として14世紀末頃に築かれたといわれる首里城世界遺産を中心に公園として整備されている。
 残念ながら2019年の火災により首里城の正殿と北殿、南殿が全焼した。

 (写真は、首里城で行われたイベントの写真(イベント名:琉球王朝 中秋の宴「首里城月見絵巻」)

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園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)(世界遺産)
 1519年に築かれた門で、国王が首里城を出て各地を巡る際に道中の安全を祈願した拝所として使用された。

玉陵(たまうどん)(玉御殿または霊御殿とも呼ばれた)(世界遺産)
 1501年、尚真王(しょうしんおう)(1465~1527)が父尚円王(しょうえんおう)(1415~1576)の遺骨を改葬するために築かれた。以降、琉球王国第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。

識名園(しきなえん)(識名の御殿(しちなぬうどぅん)または南苑(なんえん)(首里城の南にある為)とも呼ばれた)(世界遺産)
 1799年に造営された琉球王家最大の別邸(琉球庭園)で、琉球王家の保養や外国特使の接待などに利用された。

福州園
 那覇市の市制70周年および福州市との友好都市締結10周年の記念事業して建設された中国式庭園(1992年に開園)。



 旅で疲れていたことを理由にして、沖縄で暮らすのはまたの機会にすることにした(翌年再訪している)。
 那覇に2泊後、フェリーと電車を乗り継いで実家に帰った。無事に帰れたことに感謝したい。
 
 チベットという高い山々の麓(ふもと)で過ごした旅は、潮の香りを嗅(か)ぎながら終わることとなった。
 比叡山(滋賀県大津市)でも感じたことだが、山は父、海(湖)は母、その両方とも大切だと思う。



 (追記)

 あれから中国の経済成長に伴い、チベットは大きく変わったようだ。
 青蔵鉄道でラサ(拉薩)まで行けるようになり、漢民族の多くの観光客や移住者も増えつつある。

 昔イタリアに行った時、一般市民のおじさんでさえお洒落(しゃれ)だったのを見て、ファッションに対する文化的基盤が出来上がっているのを感じた。
 アイルランドではそれが音楽になる。楽器を演奏することが生活の一部になっている人が多いと感じた。
 そしてチベットのそれは霊性(スピリチュアリティ)だと思う。
 チベタン(チベット人)達の澄んだ眼差しを見たときにそう思った。澄んだ眼差しは魂の清らかさ(霊性の高さ)を示すと思う。そういう魂がチベットで生を受けることを選んだのかもしれない。



 時代は移り変われど、彼らは信仰と共に生きていくのだろう。
 今日も明日も祈りの言葉を唱えながら。

 オム・マ・ニ・ペ・メ・フム(清らかな蓮の花の咲く浄土を)



※これにてこのシリーズ終了です。ご愛読ありがとうございました。



※地図





(旅した時期:2004年)

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西蔵編(39)台北

 沖縄行きのフェリー(クルーズフェリー飛龍、現在運行中止)の出発日が翌日だった為、台北は1泊2日の滞在となった。

 台北到着日に、有村産業株式会社(フェリー運航会社)の台北オフィスに行きチケットを購入(基龍から那覇まで3900台湾ドルだった(当時のレートで約13000円))。
 また、日本大使館を訪問している。

 翌日、昼間に駆け足で台北を観光した。観光したのは下記の通り。

国立故宮博物院

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 国立故宮博物院は、フランスのルーブル美術館アメリカのメトロポリタン博物館、ロシアのエルミタージュ美術館とともに、世界四大博物館の一つとされている(四大博物館の選定には諸説有)。
 所蔵品約70万点のうちほとんどは中国歴代皇帝の収集品で、北京の紫禁城(故宮)にあったものを20世紀前半の中国の戦乱期に移送したものだそうだ。
 当時は改装中で展示物が少なかったので、いつの日か機会があればじっくり見たい。

順益台湾原住民博物館

 台湾の先住民族を部族別に説明していた。
 Wikipediaによると、2016年現在、台湾政府認定16民族だけでも約55万人の先住民がいて、その多くが低所得・過酷な労働条件で生活している。
 世界の国々における先住民の歴史は、迫害の歴史とも言える。

中正紀念堂(現台湾民主紀念館)

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 蒋介石(1887~1975)が亡くなった際に、故人を偲(しの)んで建てられることになったた(1980年竣工)。
 中正紀念堂の「中正」は蒋介石の本名((いみな)(忌み名))らしい(「介石」は(あざな))。

※歴史的に、中国人の名前には、「姓」(氏)と「諱」(名)と「字」(名)の三つの要素があった。古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、諱は軽々しく用いられることは忌避(きひ)された。偉人の中には字が一般的になっている人物もいる。



 台北の街を散策して感じたのは、人々は日本人にとても好意的で親切だったこと。
 コンビニからは日本の音楽も流れていた。
 正直申し上げて、もう少し長居したい街だった。



※地図





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おまけ(その10) The Rivers of the Mandala

西蔵編(38)カトマンドゥ~香港~台北のおまけ記事



 後年香港を再訪した際、書店で興味深い本を見つけたので紹介したい。
 その本の名前は、“ The Rivers of the Mandala ” (著者: Simon Allix , Benoit de Vilmorin )(出版社: Thames & Hudson )だ。

 英語で書かれた本だが、写真や絵を見ているだけでも楽しい。カイラスも登場する。



 参考までに、Simon Allix 氏の動画を幾つか紹介させて頂く。

simon allix ⇒ 動画はこちら

DEMO LIVRES ⇒ 動画はこちら

※上記動画の0:39より” The Rivers of the Mandala ”(書籍)が登場する。

Kailash Manasarovar ⇒ 動画はこちら

Kailash, on the paths of Tibet ⇒ 動画はこちら

La Montagne Magique ⇒ 動画はこちら





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西蔵編(38)カトマンドゥ~香港~台北

 日本を発つ前に検討していたプランの一つとして、ネパール訪問後インドのダージリン( Darjeeling )に行くというものがあった。
 しかし、チベット滞在が予想以上に長引いたこともあり、予算が足りないと判断し諦めた。



 結局、カトマンドゥ(カトマンズ)( Kathmandu )に4泊した後、飛行機で香港に向かった。
 カトマンドゥトリブバン国際空港は、7年前と比べ、立派な建物になっていた。

 カトマンドゥから香港までは4時間のフライトだった(ロイヤル・ネパール航空(現ネパール航空))。
 一気に大都会に来てしまい、戸惑った感もあったが、友人達と再会して一息ついた。



 (香港の滞在目的)

(1)友人達と再会する
(2)台湾に片道切符で入国できるか確認しておく



(1)友人達と再会する

 お土産を渡してチベットの旅の報告をした。
 チベット自治区への漢民族流入が止まらず、チベタン(チベット人)の若者が仕事に就けないという話を若干憤(いきどお)りを持って伝えたところ、「私達も漢民族だ」ということで賛同してもらえなかった。
 だが友人達は今、中国政府の圧力が強まっている香港の現状を嘆いている。

※余談になるが、後年香港を訪れた際に1冊の本に出会った(参考記事はこちら)



(2)台湾に片道切符で入国できるか確認しておく

 クルーズフェリー飛龍(基隆(台湾)~那覇)の切符を予約していたが、確認の為台北(台湾)の有村産業のオフィスに国際電話をかけたところ、「何とかなるだろう」とのこと。

※運航会社(有村産業株式会社)の破産により、残念ながら2008年6月以降は日本~台湾を結ぶ旅客フェリーは運航していない(貨物船のみ運航)。

 しかし、本来台湾は片道切符では入国が出来ないと聞く。手元に日本行きのチケットが無いのが気がかりだった。
 香港の日本大使館に行き懸案について相談すると、あっさり「大丈夫ですよ」と言われた。ようやく一安心だ。



 香港で4泊滞在後に台北へと向かった。
 予想していた通り、香港国際空港のチェックイン・カウンター(キャセイパシフィック航空)でひと悶着あった。

 「台湾からの帰りの切符が無いではないか」

 「台湾から日本へ行くフェリーを予約しているし、台湾に入国出来ると日本大使館で確認済みだ」

 有村産業台北オフィスの連絡先と担当者の名前を伝えたが、先方はなかなかOKと言ってくれなかった。
 結局30分以上待たされてようやく許可が下りた。台湾の入国管理局に電話して了承を得たそうだ。

※香港に行く際、キャセイパシフィック航空を何度か利用しているが、規則に厳しいイメージがある(その分対応がしっかりしているのかもしれない)。

 搭乗するのに苦労した飛行機だが、乗っていたのは僅(わず)か1時間半だった。



 中正国際空港(現台湾桃園国際空港)からバスで台北市街に移動した。

 車窓から目にする風景に懐かしさを感じる。
 日本というより沖縄に雰囲気がよく似ているのかもしれない。



※地図





(旅した時期:2004年)

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西蔵編(37)パタン

 カトマンドゥ(カトマンズ)( Kathmandu )滞在中、近郊の古都パタン( Patan )(世界遺産)を訪問している。
 パタンの正式名称はサンスクリット語でラリトプル( Lalitpur )、ネワール語ではイェラ( Yala )で、どちらも「美の都」という意味らしい。
 この街に住むネワール族は彫刻や絵画などの芸術に優れ、パタンは工芸の街としても知られている。

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 パタンの街は、バグワティ川を挟んで、カトマンドゥのすぐ南に位置する。
 住民の8割が仏教徒で、ブッダヴィシュヌ神の化身とされている。

 街の中心ダルバール広場の周りには、美しいネパール建築の寺院が数多く見られる。
 7年ぶりに見るパタンの街は、昔より整備されているように思われた。

 (下記写真は、シヴァ神を祀るクンベシュワール寺院(1392年建立)。五重塔を持つ)

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 (下記写真は、マハボーダ寺院(1600年建立)。(ブッダ・ガヤ(インド)のマハボーディー寺院を模したもの(高さ約30m))

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 この街でお土産にA3サイズ位のタンカ(布に描かれたチベット仏画、掛け軸タイプ)を購入した。
 1200ルピー(当時のレートで2000円弱)という値段だったが、品質に比べ安く感じられた為「この値段でいいのか」と店員に確認したところ、「この日一番最初の客だからいい」とのこと(値段のつり上げは行われなかった)。

 ゲン担(かつ)ぎなのかは分からないが、海外では同じような対応を何度か経験している。
 一日の最初の客というのは、その日の売上を占う意味で重要なのかもしれない。彼ら商売人の経験則での判断なのだろう。



※地図





(旅した時期:2004年)

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