旅拝

過去の旅の記録です。

西蔵編(40)台北~基隆~石垣島~宮古島~那覇

 台北に1泊し急ぎ足で観光した後、夕方の列車で基隆(きりゅう)( Ji Long )(キールン)(かつての名称は「鶏籠」(発音同じ))に向かった(所要50分)。
 バスだと台北から始発があり座れたのだが、列車が好きなので座れなくても苦にならなかった。

 通勤客が多い車中で、ある女性に突然話しかけられた。
 その女性の名前は東龍宮宮司( shi )卉栒( dan hui )さんだった。基隆に分壇(分堂)があるとのこと。
 東龍宮は、日本の明治時代の海軍軍人・貴族院議員田中綱常(つなつね)氏(1842~1903)を神様として祀(まつ)っているそうだ(情けない話だが、氏のことをこの時初めて知った)。



 田中綱常氏について調べてみた。
 田中綱常は薩摩藩出身の軍人・政治家で、最終階級は海軍少将。
 海軍「比叡」艦長時代、エルトゥールル号遭難事件にて救助された乗組員を母国(オスマン帝国)まで送り届け、オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世(1842~1918)より勲章を下賜(かし)された。



エルトゥールル号遭難事件について

 1890年9月16日、紀伊大島(和歌山県)の樫野崎(かしのざき)東方海上にて、オスマン帝国海軍軍艦エルトゥールル号が台風に遭遇し、船甲羅(ふなごうら)岩礁に激突、遭難した。
 600名以上の乗船者のうち、587名が殉職、生存者69名という大海難事故となったが、紀伊大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたった。
 知らせを聞いた明治天皇は政府に援助を指示し、各新聞は衝撃的なニュースとして伝えた。その結果、日本全国から多くの義金、物資が届いた。
 69名の生存者は神戸で治療を受けた後、「比叡」、「金剛」の2隻の日本海軍の軍艦に分乗し、翌年1月2日、無事イスタンブールに到着。トルコ(オスマン帝国)国民の心からの感謝に迎えられた。

 この話には続きがある。

 1985年のイラン・イラク戦争において、イラク「イラン上空の航空機について、48時間後から無差別に攻撃する」と宣言。
 当時の日本の法律では自衛隊による在外邦人救援が出来ず、日本で唯一国際線を運航していた日本航空「安全の保証がされない限り臨時便は出さない」と判断。
 日本国大使がトルコ国大使にこの窮状を訴えたところ、トルコ航空はイランへの救援旅客機を2機に増便し、タイムリミットの僅(わず)か1時間前に215名の日本人全員がトルコのアタテュルク国際空港経由で無事に日本へ帰国出来た(日本人の為にトルコ人は陸路でトルコに帰国したそうだ)。

 後になってトルコ航空が助けに来てくれた理由が判明した。

 (前駐日トルコ大使:ネジアティ・ウトカン氏談)
 エルトゥールル号の遭難事故に際しての日本人の献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子供達でさえ、エルトゥールル号事件を知っています。今の日本人が知らないだけです。(恩を返す為)テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

串本町(和歌山県牟婁(むろ)郡)HPでのエルトゥールル号遭難事件紹介記事はこちら

エルトゥールル号遭難事件は海難1890というタイトルで映画化されているようだ(東映のHPはこちら)

エルトゥールル号遭難事件の起きた紀伊大島のおまけ記事はこちら



 田中綱常は日清戦争後、台湾総督府民生局事務官、澎湖(ほうこ)列島行政庁長官、台北県知事を歴任。その後日本で貴族院議員に勅選され、死去するまで在任した。



 後年、台湾在住の女性石羅界宮主が夢枕に現れた田中綱常のお告げを聞き、東龍宮を建立したそうだ(石羅界さんと石卉栒さんはご家族かもしれないが、旅日記に記録が無い為関係性は不明)。

日本台湾学会HPでの紹介記事(タイトル:田中綱常から田中将軍への人神変質)はこちら

※現地の東龍宮紹介記事(台湾語のHP)はこちら



 基龍駅は基隆港の目の前にあり、沖縄行きのフェリーターミナルまでは歩いて10分程だった。

 基隆の街は、「雨港」と呼ばれるほど雨の多い街で、年間200日以上雨が降るそうだ。
 特に10月から4月にかけては毎日のように雨が降ると言われている。
 歴史的にも古い街で、豊臣秀吉の使者や、アメリカのペリー提督も寄港している。


 沖縄行きのフェリー(クルーズフェリー飛龍、現在運行中止)は22時半発だった。

 船中には、沖縄から出張に来ているビジネスマンの方もいた。
 自分の想像以上に沖縄と台湾の結び付きは強いと感じた。

 余談になるが、昔旅先で出会った沖縄の離島出身の旅人(日本人)は、標準語を話せなかったが台湾語を話すことが出来たことを思い出した。
 また、沖縄の漁船が台湾の海賊に拉致されることもあるらしい。



 本来は那覇まで直行という話だったが、フェリーは翌朝6時半に石垣島に寄港した。
 ここで友人に再会している(電話したら石垣港まで来てくれたのでお土産を渡した)。目がキラキラしていると言われたが、チベットで出会った人達に感化されたのだと思う(残念ながらその後私の瞳の輝きは失われてしまったが)。

 当初の旅のプランではチベット帰りに沖縄で暮らすことも検討していた。
 石垣島で下船することも出来たが、那覇までの切符が無駄になる為、友人にまた来ると伝えてこのまま帰ることにした。



 その後、10時に宮古島(平良港(ひららこう))に寄港し、22時半まで滞在。
 宮古島ではバスと徒歩で島内を観光している(那覇前浜を観光)。歩いていると途中地元のおじさんがトラックに乗せてくれた。
 他には宮古そばを食べたこと、大きなお墓に驚いたこと等を旅日記に書き記している。



 そして翌朝6時半に那覇(那覇港)に到着。
 この日、ラサ(拉薩)から送った荷物が実家に届いたという連絡を受けた(帰国日が重なるシンクロが起きている)。
 那覇には2泊3日滞在している。観光したのは下記の通り。

首里城公園(世界遺産)
 かつて琉球を統一した中山(ちゅうざん)王国の居城として14世紀末頃に築かれたといわれる首里城世界遺産を中心に公園として整備されている。
 残念ながら2019年の火災により首里城の正殿と北殿、南殿が全焼した。

 (写真は、首里城で行われたイベントの写真(イベント名:琉球王朝 中秋の宴「首里城月見絵巻」)

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園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)(世界遺産)
 1519年に築かれた門で、国王が首里城を出て各地を巡る際に道中の安全を祈願した拝所として使用された。

玉陵(たまうどん)(玉御殿または霊御殿とも呼ばれた)(世界遺産)
 1501年、尚真王(しょうしんおう)(1465~1527)が父尚円王(しょうえんおう)(1415~1576)の遺骨を改葬するために築かれた。以降、琉球王国第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。

識名園(しきなえん)(識名の御殿(しちなぬうどぅん)または南苑(なんえん)(首里城の南にある為)とも呼ばれた)(世界遺産)
 1799年に造営された琉球王家最大の別邸(琉球庭園)で、琉球王家の保養や外国特使の接待などに利用された。

福州園
 那覇市の市制70周年および福州市との友好都市締結10周年の記念事業して建設された中国式庭園(1992年に開園)。



 旅で疲れていたことを理由にして、沖縄で暮らすのはまたの機会にすることにした(翌年再訪している)。
 那覇に2泊後、フェリーと電車を乗り継いで実家に帰った。無事に帰れたことに感謝したい。
 
 チベットという高い山々の麓(ふもと)で過ごした旅は、潮の香りを嗅(か)ぎながら終わることとなった。
 比叡山(滋賀県大津市)でも感じたことだが、山は父、海(湖)は母、その両方とも大切だと思う。



 (追記)

 あれから中国の経済成長に伴い、チベットは大きく変わったようだ。
 青蔵鉄道でラサ(拉薩)まで行けるようになり、漢民族の多くの観光客や移住者も増えつつある。

 昔イタリアに行った時、一般市民のおじさんでさえお洒落(しゃれ)だったのを見て、ファッションに対する文化的基盤が出来上がっているのを感じた。
 アイルランドではそれが音楽になる。楽器を演奏することが生活の一部になっている人が多いと感じた。
 そしてチベットのそれは霊性(スピリチュアリティ)だと思う。
 チベタン(チベット人)達の澄んだ眼差しを見たときにそう思った。澄んだ眼差しは魂の清らかさ(霊性の高さ)を示すと思う。そういう魂がチベットで生を受けることを選んだのかもしれない。



 時代は移り変われど、彼らは信仰と共に生きていくのだろう。
 今日も明日も祈りの言葉を唱えながら。

 オム・マ・ニ・ペ・メ・フム(清らかな蓮の花の咲く浄土を)



※これにてこのシリーズ終了です。ご愛読ありがとうございました。



※地図





(旅した時期:2004年)

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