旅拝

過去の旅の記録です。

四国巡礼編(9)修行の道場(1)最御崎寺(24番札所)~金剛頂寺(26番札所)

 【修行の道場(高知県)】


 
 お遍路9日目の朝、目覚めると、両足の裏に複数のマメが出来ていた。
 昨日から足の裏に違和感を感じていたが、ついに出来たかという感じだ。
 マメの原因は幾つか考えられる。

(1)歩行距離の延長
 今までは歩いても30km程だったが、昨日は40km近く歩いてしまった。
 札所では重いリュックを置いて身軽になれる時間が取れるのだが、昨日は札所が無かった為、歩く距離に対して休憩の回数が少なかった可能性も考えられる。

(2)足のケア不足
 日没後まで歩いて疲れ切った状態で野宿した為、昨晩寝る前にきちんと足のケアをしなかった。

(3)認識の甘さ
 以前会ったベテラン遍路より、「マメが出来ないよう気を付けるように」と言われていたが、マメが出来たとしても何とかなるだろうと甘く見ていた。
 今までの人生でも足の裏にマメが出来たことがあったが、その時は大きな問題にはならなかったということで、気楽に考えていた可能性が考えられる。

 この記事を書くにあたりネットで調べたところ、足の裏にマメが出来た場合の治療キットが豊富に見つかった。私が歩いた当時もあったのかもしれないが、そういった便利なグッズがあることを知らなかったと思う。

※当時の治療方法:針でマメに穴を開け溜まった水を抜き、その後気休め程度に傷薬を患部に塗り、絆創膏(ばんそうこう)を貼って終了。

 両足に複数のマメが出来ていたが、(左右どちらか忘れたが)大きいマメがある方の足は、地面と接触する際に痛みが走った。
 その為痛む足を引きずるような歩き方になるのだが、足への負荷を減らすべく金剛杖で踏ん張りながら歩くことにした。

 (写真は早朝出会った野生の猿)

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 この日は、下記の番外霊場に立ち寄ったり、その付近を通過している。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

佛海庵(仏海庵)(御本尊:地蔵菩薩)
 江戸時代、海上人(木食(もくじき)仏海)により建立された庵。仏海上人は、遍路の難所と言われたこの地に歩き遍路の接待と救済を目的として庵を建てた(宝暦10年(1760年))。
 当時は月に6000人~9000人位の歩き遍路がいたらしく、ここは彼らにとっての救いの宿となっていたらしい。
 仏海上人は庵のそばに宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建て、明和6年(1769年)に塔の下で即身成仏した。

・(鹿岡(かぶか))夫婦岩(みょうといわ)

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 夫婦岩(めおといわ)(みょうといわ)と呼ばれる岩は日本各地にあるが、その中でも大きい部類に入ると思われる。
 大晦日の晩に夫婦岩の間(う)の碆(はえ)に「竜燈」が灯(とも)ることがあったらしく、この神火を地元では「かじょうさま」と呼んだらしい。その火は新年を迎える為の浄火となったという言い伝えが残っている。

※竜燈(龍燈):龍神の灯す火と言われ神聖視されている、日本各地に伝わる怪火現象。
 主に龍神の住処と言われる海や河川の淵から出現し、水上に浮かんだ後に火が連なったり、付近の木等に留まるとされる。

室戸青年大師像
 高さ21m(台座部分5mを含む)。昭和59年(1984年)に建立された。立ち寄ってはいないが、大きな像の為国道55号を歩いているとその存在に気付く。
 かつて弘法大師もこの地を歩いたということが、お遍路をする者に大きな力をくれる。

 余談になるが、お遍路はその偉大な先人のことを、親しみを込めて「お大師さま」「お大師さん」と呼ぶ。
 身に付けた白衣(はくえ、びゃくえ)や菅笠(すげかさ)や手に持つ金剛杖には「同行二人(どうぎょうににん)と書かれている。「同行二人」という言葉の意味、それは「あなた一人ではなく、お大師さまもあなたと共に歩いていますよ」ということだ。
 道中幾度となく、その言葉の意味を噛みしめながら歩いた。

御厨人窟(御蔵洞)(みくろど)と神明窟(しんめいくつ)

 (下記写真の左側が御厨人窟、右側が神明窟)

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 御厨人窟と神明窟は、波による侵食により形成された海蝕洞(海食洞)(かいしょくどう)で、御厨人窟には五所神社があり、神明窟には神明宮がある。
 洞窟内部で聞こえる波の音は、室戸岬御厨人窟の波音」として日本の音風景100選に選定されている。
 参拝当時は内部を見学できたが、その後海蝕の進行による落石が頻繁化したらしく、洞窟内部への立入りが禁止されたらしい(現在の状況は不明)。
 弘法大師の著作三教指帰(さんごうし(い)き)には、阿国太龍嶽(太竜寺山と考えられている)にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し仏法の無二を現す」と書かれており、神明窟での修行中に明星が口に飛び込み、弘法大師悟りを開いたと伝えられている。
 当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあったらしく、洞窟の中で目にした風景は空と海だけだったことから、青年佐伯真魚(さえきのまお)は空海と名乗ったと伝わっている。

 洞窟内部はビリビリとした霊気に満ちており、当時その場にいたお遍路や観光客は皆口を揃(そろ)えて「ここはすごい」と感想を述べていた。

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 この日の午後、痛む足を庇(かば)いながら歩いたことにより、支えていた方の足の関節や腰にも痛みが発生。足への負荷を減らすべく金剛杖で踏ん張っていた為、両腕の筋肉はパンパンになっていた。
 特に厄介だったのは足腰の関節痛だ。他の痛みは何とか耐えられそうだったが、この状態が続くと本当に歩けなくなると感じた。自分の通常体重+荷物の重さ15kg分が増量されている状態でマメが出来た場合は、きちんと処置をしなくてはならないことを痛感した。
 何故病院に行って医者に診てもらわなかったのか、恐らく歩くのを止めて安静にするようにと言われるのが怖かったのだろう。

 日が暮れてから観音窟(最御崎寺(ほつみさきじ)奥の院)(番外霊場)前のパーキングに到着。既にバイカーや車で旅をしている人達が野宿の準備をしており、自分もここでテント泊をすることにした。



 [第24番札所:室戸山(むろとざん) 明星院(みょうじょういん) 最御崎寺]

・御本尊:虚空蔵菩薩(秘仏)
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海嵯峨天皇(勅願)
・住所:高知県室戸市

※別称:東寺(ひがしでら)(室戸岬では東西に対峙している最御崎寺が「東寺」、26番札所金剛頂寺「西寺」(にしでら)と呼ばれている)



 お遍路10日目、朝一番に最御崎寺へと向かった。雰囲気の良いお寺だ。

 (写真は山門(仁王門))

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 23番薬王寺から24番最御崎寺までは約76km。88ヶ所霊場の札所間距離で最長かと思ったが、実際は2番目に長い距離らしい(最長距離は37番岩本寺~38番金剛福寺(約81km))。

 室戸の地で修行し虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を成就した弘法大師は、唐から帰国後に嵯峨天皇の勅命を受け再びこの地を訪れ、彫った虚空蔵菩薩像を御本尊として本堂を建立したと伝えられている。



 [第25番札所:宝珠山(ほうしゅざん) 真言院 津照寺(しんしょうじ)]

・御本尊:(楫取(かじとり)(延命))地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:高知県室戸市

※別称:津寺(つでら)(今昔物語集に室戸の「津」という地名及び「津寺」という名称が登場する)



 最御崎寺参拝後、室戸岬灯台に立ち寄ってからおよそ7km弱の道のりを2時間半かけて歩いた。通常であれば2時間かからないと思うが、足を庇いながら頑張って歩いたと思われる。

 (写真は鐘楼門に続く階段)

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 津照寺の寺伝によると、大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れた際、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ていることからこの地が霊地であると感得され、延命地蔵菩薩を刻み堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し開創したとされる。

 御本尊の「かじとり」地蔵については、幾つか由来がある。

(1)火事取り地蔵(『今昔物語集』より):本堂が火災にあった際、僧の姿になった御本尊地蔵菩薩がその旨を村人に知らせ、火難を逃れた。

(2)楫取地蔵(『旧記南路史』より):慶長7年(1602年)に土佐藩山内一豊が室戸沖で暴風雨に遭った際、突如僧侶が現れ船の楫(かじ)を取り無事に室津の港に入港した。
 その僧侶の正体が津寺(津照寺)の御本尊地蔵菩薩であるということが分かり、以降御本尊を楫取地蔵と呼ぶようにになった。



 [第26番札所:龍頭山(りゅうずざん) 光明院 金剛頂寺(こんごうちょうじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)大同2年(807年)
・開基:(寺伝)空海平城天皇(勅願)
・住所:高知県室戸市

※別称:西寺(室戸岬では東西に対峙している最御崎寺が「東寺」、26番札所金剛頂寺が「西寺」と呼ばれている)



 津照寺から金剛頂寺まで約4kmだが、到着までに2時間かかっている。段々と歩くペースが落ちているが、痛む足で何とか歩いていたのだろう。

 金剛頂寺は、弘法大師にとって最初の勅願寺の創建(大同2年(807年)に開創)だったらしい。平城天皇の勅願により、御本尊の薬師如来を彫って納めたそうだ。

 創建時は「金剛定寺」と呼ばれていたが、次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改めたという。

 (写真は、山門(仁王門)に奉納された大草鞋(わらじ))

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 金剛頂寺参拝後再び国道55号に出て、道の駅キラメッセ室戸に立ち寄った。
 そこにはカップルや家族連れ等多くの観光客がいて、とても楽しそうな雰囲気が伝わってきた。足を痛めて暗い表情の自分とは雲泥の差だ。
 その暗い雰囲気のせいか、私のことを見かけた人から声をかけられることはなかった。
 周囲とのギャップを自分で感じていた為か、お店には入らなかったと思う。トイレを利用し自販機でジュースを購入して飲み終えた後、そそくさと立ち去った。

 さすがに今晩はきちんとした宿に泊まって足のケアをする必要があると感じた為、民宿に電話をした。



 この日宿泊したのは、室戸市吉良川(きらがわ)町にある民宿ホワードだ(素泊まり3800円)(残念ながら、その後廃業されたようだ)。

 吉良川町はかつて木材の産地として栄えたらしく、その街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。ちょっとした城下町のような雰囲気だった。

 徳島ではほとんど電話していなかったが、携帯電話の充電が出来るということもあり、この日は友人達に電話をかけている。心細かったのだろう。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(8)発心の道場(7)薬王寺(23番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第23番札所:医王山 無量寿(むりょうじゅいん) 薬王寺]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)神亀3年(726年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県海部(かいふ)郡美波(みなみ)町



 お遍路7日目。「キクヤ食堂」(善根宿)を遍路仲間達と発った。
 今日で区切り打ちを終えて帰る遍路もいた為、寂しさもあったがこれが旅だ。

 薬王寺まで約20kmの道中、徳島の思い出について語り合い、感慨深い思いを抱きながら歩いた。
 薬王寺に着いたのは午後13時半過ぎだった。

 (写真は、本堂)

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 薬王寺の寺伝によると、神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が開創したとされる。

 その後、弘仁6年(815年)に平城上皇の勅命を受けた弘法大師が再興した。
 大師が彫ったとされる薬王寺御本尊の薬師如来「後ろ向き薬師」と呼ばれているそうだが、参拝時は知らなかったと思う。

※後ろ向き薬師:2体の御本尊の一つ。弘仁6年(815年)に弘法大師が彫ったとされている。
 文治4年(1188年)の火災の際、厨子(たまずしやま)(540m)にある奥の院(玉厨子庵(泰仙寺(たいせんじ)))(番外霊場)に自ら飛んで焼失を逃れ、後年後醍醐天皇により寺院が再建された際、飛んで帰り後ろ向きに入った厨子を自ら閉じたことから、「後ろ向き薬師」と称され秘仏となった。この為薬王寺には御本尊が2体ある。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。



 薬王寺を打ち遅い昼食を取った後、帰る遍路を駅(JR牟岐(むぎ)日和佐駅)まで見送りに行った。

 区切り打ちで徳島の札所を打ち終えた遍路にとって、薬王寺が今回の旅の結願の場所だったと言える。
 徳島の人達の温かい人情に触れながら、無事遍路の旅を終えたことに対する感謝の気持ちが湧き上がって来たのだろう。それはまだ旅を続ける遍路達にとっても同じだった。
 別れに際し、皆涙腺が緩くなっていたように思う。



 お遍路に行ってみたいが長期の休みが取れないという方には、(コロナウィルスの流行状況を見極めながら)是非一度徳島県の札所(1番~23番)を巡る区切り打ちをお勧めしたい。
 歩き遍路の場合、一般的には1週間~10日程の休みがあれば、23番まで打ち終えることが出来る。
 もしその後もお遍路を続けたければ、区切り打ちを繰り返して結願を目指すことが出来ると思うし、改めて時間のある時に通し打ちにチャレンジしてもよいと思う。



 区切り打ちの遍路仲間を見送った後、本日の宿に移動した(確か、薬王寺から2km程平等寺方面に戻ったと思う)。
 この日の宿は、善根宿のバスだった。このバスは、遍路仲間からドライブインはしもと」と呼ばれていたが、実際はドライブインはしもとのご主人が管理されている、バスを改造した善根宿だった。

 ベテラン遍路より、ここに宿泊するとご主人より夕食のお接待をして頂けると聞いていたが、実際に食事が届いた際は皆が歓声の声を上げた。旅館で出される料理のような豪勢な食事だったからだ。
 おそらくドライブインはしもとの宿泊者向けの料理をそのままお接待して頂いたのではないかと思われる。

 いつの日かドライブインはしもとにお客として訪問したかったが、残念ながら現在は閉業されているようだ(バスを改造した善根宿について、現在の状況は不明)。

 その節は宿泊場所と美味しいお食事をお接待して頂きましてどうもありがとうございました。

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 翌朝(お遍路8日目)、遍路仲間と別れ、一人歩き始めた。

 徳島で出会った遍路達に高知以降の道中で再会することはほとんど無かったように思う(1、2回程度有)。
 高知県では札所間の距離が長く、人によって1日に歩く距離が違う為だと思われる。

 徳島で出会ったお遍路仲間で、その後もよく電話を頂いたのは、18番札所恩山寺への道中で出会ったご住職だった。
 ご住職から週に1、2回程電話を頂いた覚えがある(時間帯が決まっていて20時~21時頃が多かった)。その時の状況を聞かれ、歩いていると答えると「今日はもう歩くのを止めるように」と諭(さと)されたことが何度もあった(ご心配頂いたことに感謝)。

 この方から、車のお接待(「車で先まで乗せていきますよ」というお申し出)については断らずご厚意に甘えなさいと言われていたのだが、(申し訳ないが)言いつけを守らなかった。

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 この日の思い出。

国道55号をひたすら南下。他のお遍路との交流はほとんど無かったが、数百m先に見える歩き遍路の背中を見つめながらひたすら歩く(歩く速度がほとんど変わらない為、一向に追い付かない)。

・旅日記に「海を見た。漁師を見た」と書き記している(この旅初めて海を見たと思われる)。

・道中何ヶ所か遍路小屋があり、休憩時にお接待をして頂いたこともあった。
 出来たばかりの遍路小屋での休憩中、遍路小屋を建てられた方の話を伺ったのだが、その方の言葉を旅日記に書き記している。

 「歩き遍路はお大師さん(弘法大師)と思うちょる」



 この日は40km程ひたすら歩き、ついに修行の道場(高知県)に入った(正確な場所は記録していないが白浜海岸(高知県安芸郡東洋町)付近でビバークしている)。

 発心の道場(徳島県)では、慣れない歩き遍路に対して、多くの方々(地元の方々や他のお遍路さん達)に助けて頂いた(感謝)。
 人生で例えるならば、幼年期~少年期(0歳~14歳):徳島だとすると、青年期(15歳~29歳):高知という感じだろうか(「壮年」についての Wikipedia より)。
 少年期から青年期へ大人になる為の儀式が23番札所薬王寺~24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)道中(約75km)だと思われる。残念ながら多くの遍路がこの長い道のりの途中で足を痛め、歩みを止めてしまうそうだ。

 これから先、歩んでいけるか正直不安だった。しかし、辛いことだけでなく楽しいこともたくさん待っていることだろう。
 お遍路初日の晩極度の疲労感+(旅を続けられるかという)不安感を感じた時と比べて、今の自分には発心の道場を打ち終えたという(わず)かながらの自信があった。

 しかしこの後、その小さな自信は打ち砕かれることになる。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(7)発心の道場(6)鶴林寺(20番札所)~平等寺(22番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第20番札所:霊鷲山(りょうじゅざん) 宝珠院(ほうじゅいん) 鶴林寺(かくりんじ)]

・御本尊:地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)延暦17年(798年)
・開基:空海桓武天皇(勅願)
・住所:徳島県勝浦郡勝浦町

※別称:お鶴(さん)

※余談になるが「勝浦」という地名は、那智勝浦町(和歌山県牟婁(ひがしむろ)郡や、勝浦市(千葉県)にも存在する(上記の地域では、2月~3月に大きなひな祭りイベントが開催される)。伝承によると、阿波国から天富命(あめのとみのみこと)と共に黒潮に乗って船で移住した勝占(かつうら)の忌部(いんべし)の名が由来となったとする説がある。尚、徳島市には勝占町も存在する。



 お遍路6日目。
 この日は二つの遍路ころがしを越える難所を通るということで、「寿康康寿庵(じゅこうこうじゅあん)」(善根宿)に滞在したお遍路達は皆早朝に起床し、各自準備が出来た者から発っていった。

 天気は快晴で心地よかった。この日の宿泊予定地は22番札所平等寺を越えたところにある「キクヤ食堂」(善根宿)を予定していた。距離的には寿康康寿庵から30km弱となる。

 (写真は、道中で見かけた藤の花)

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 寿康康寿庵から鶴林寺までは約10km。途中から本格的な遍路道に入り、遍路ころがしと呼ばれる山道になった。
 鶴林寺鶴林寺(標高516.1m)の山頂近くにあり、88ヶ所霊場の中で7番目に標高が高い(本堂の標高495m)。

※標高の高い札所ランキング(本堂の位置で比較)

 (1位)66番札所雲辺寺(うんぺんじ)(標高900m)
 (2位)60番札所横峰寺(標高745m)
 (3位)12番札所焼山寺(しょうざんじ)(標高700m)
 (4位)45番札所岩屋寺(標高585m)
 (5位)44番札所大寶寺(大宝寺)(だいほうじ)(標高560m)
 (6位)21番札所太龍寺(たいりゅうじ)(標高505m) ※この記事(下記参照)
 (7位)20番札所鶴林寺(標高495m) ※この記事
 (8位)88番札所大窪寺(標高450m)
 (9位)27番札所神峯寺(こうのみねじ)(標高430m)
 (10位)65番札所三角寺(標高355m)

 寺院に到着したのは午前10:30頃で、山の朝の清浄な気が気持ち良かった。

 鶴林寺の寺伝によると、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願により弘法大師が開創した。

 雌雄2羽の白鶴が杉の梢(こずえ、樹木の先の部分)で1寸8分(約5.5cm)の黄金の地蔵像を守護しているのを修行中に見た大師が、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた地蔵像を納めて御本尊とし、寺名を鶴林寺と定めた。
 山号は境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることにちなんで名付けられたそうだ。

 (写真は山門(仁王門))

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 [第21番札所:舎心山(しゃしんざん) 常住院(じょうじゅういん) 太龍寺]

・御本尊:虚空蔵(こくうぞう)菩薩
・創建年:(寺伝)延暦12年(793年)
・開基:(寺伝)空海桓武天皇(勅願)
・住所:徳島県阿南市

※別称:西の高野(大師堂の配置が高野山奥の院と同じ配列になっている為(御廟の橋、拝殿、御廟が並ぶ))

 鶴林寺から太龍寺までは約7km。せっかく上った山(鶴林寺山)を麓(ふもと)まで下りてから、再び太竜寺山(太龍寺山)(たいりゅうじやま)(太竜寺山弥山(みせん))(標高600m)の山頂近くまで上らなくてはならない(本堂の位置は標高505m)。

 阿波(徳島県)での遍路ころがしの難所として「一に焼山(12番札所焼山寺)、二にお鶴(20番札所鶴林寺)、三に太龍(21番札所太龍寺)」と称されている。

 四国88ヶ所霊場の遍路ころがしと呼ばれる札所の中で、個人的に一番印象深いのはこの日参拝した鶴林寺太龍寺だ。
 太龍寺に到着したのは午後13時過ぎだったが、鶴林寺と同様参拝者は少なかった。
 その為、大木に囲まれながら山の静寂を心ゆくまで満喫することが出来た。

 太龍寺の寺伝によると、延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって堂塔が建立され、弘法大師が御本尊虚空蔵菩薩像を始めとする諸仏を刻み開創したと伝えられている。

 ちなみに、(参拝したか記憶が曖昧だが)ここ太竜寺の境内から南西約600mに位置する舎心ヶ嶽」(番外霊場)という岩上で、弘法大師が100日間の虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を修行されたと伝えられている(弘法大師24歳のときの著作三教指帰(さんごうし(い)き)「大瀧嶽」(太竜寺山と考えられている)についての記述有)。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

※虚空蔵求聞持法:真言百万遍唱える難行とされる修法で、達成した者は無限の記憶力が与えられるとされている。

 寺院の山号は大師の修行した舎心嶽(舎心ヶ嶽)より、寺名は修行中の大師を守護したとされる大龍(龍神)にちなんでいる。


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 後年、神社仏閣巡りから発展する形で奥宮・奥の院のある山に登拝するようになった。
 仕事のストレスや自分の抱いたネガティブな感情が原因で、自分の気が枯れている状態になった時、無性に山に登りたくなる。
 気枯れ=穢(けが)という状態であったとしても、登山後に山の気で浄化されることが多々あった((はら)いの効果があると思う)。
 ストレス発散方法については他にもあるが、発散した後に清浄な気を体内に取り込めるという点で登山はお勧めだと思う(或いは(祓いの効果があると思われる)お勧めは、早朝の神社参拝、出かけるのが難しい場合は自宅の掃除)。



 遍路ころがしの中で、鶴林寺太龍寺の札所が特に印象深い理由について考えた。
 おそらく、鶴林寺で祓われ浄化された状態で太龍寺を打ったからではないかと思われる。

・他の札所(遍路ころがしのある山寺):(全てとは言わないが)街の喧騒で気が枯れてマイナス状態だったのが、参拝して0(本来の姿)に戻る(祓い・浄化の作用)。
太龍寺:既に鶴林寺を打って回復した状態で、太龍寺を打つ(参拝する)とプラスに転じる。

 他にも理由があるかもしれないが、この鶴林寺太龍寺四国の山寺の中でもとても印象深い札所だった。



 [第22番札所:白水山(はくすいざん) 医王院 平等寺]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)弘仁5年(814年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県阿南市



 寺伝によると、弘法大師がこの地を訪れ心に浮かんだ薬師如来を想いながら「あらゆる人々の心と身体の病を平等に癒し去る」と御誓願を立てられた。更に加持水を求めて井戸を掘られたところ、乳白色の水が湧いたという。
 大師はこの水で身を清め、百日間の護摩行を終えた後、薬師如来を彫られてこの地に建てたお堂の御本尊とした。
 山号は白き水が湧いたことから「白水山」、寺号は人々を平等に救済する祈りを込めて平等寺と定められたという。



 太龍寺から平等寺までは約11km。何とか午後17時前に打ち終えた。
 夕方ということもあり参拝者は少なかった。この日は鶴林寺太龍寺平等寺と、寺院の静かな雰囲気・佇(たたず)まいを感じることが出来たと思う。

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 平等寺から本日の宿泊予定地「キクヤ食堂」(善根宿)まではおよそ500m。
 旅日記に「キクヤ食堂」と記録しているが、ネットで調べたところ正式名称は「旅荘きくや」と思われる(喜久屋金物店の方が管理・運営)。現在は閉鎖されているようだ。お遍路道中で寝床を提供して頂ける善根宿は非常に有難かった。
 15年前に頂いた善意に改めて感謝したい。どうもありがとうございました。



 明日はいよいよ発心の道場(徳島県)最後の札所、23番薬王寺を打つ。
 善根宿に宿泊したお遍路の中には、薬王寺を打った後区切り打ちで旅を終える人もいた。
 また、高知県に入ると札所間の距離が長く、1日に歩く距離に違いが出やすくなる為、この後再会しない人もいた。
 僅かな期間ではあったが、毎日同じ目標に向かって歩んでいった仲間達ともうすぐお別れだ。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(6)発心の道場(5)恩山寺(18番札所)~立江寺(19番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第18番札所:母養山(ぼようざん) 宝樹院 恩山寺(おんざんじ)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:不詳(天平年間末?)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県小松島市



 お遍路5日目。
 この日見た夢の言葉だろうか、「道行く一人一人が仏様」と旅日記に書き記している。

 さて、次の18番札所恩山寺までは20km近く歩かなくてはならない。
 道中、新町温泉という銭湯に立ち寄る為、徳島の市街地を通るルートを選択した。距離的には少し遠回りになるが、温泉に入れるのは有難い。

 「栄タクシー」(善根宿)から歩き出してしばらく歩いた頃、お店の開店準備をしていた女性に声を掛けられた。お店の中に招かれた後、温かい飲み物等をお接待頂いた(感謝)。
 このお店の名前は「ビューティーサロン ガラスの城」という美容室だが、ネットで調べても見つからなかった。お店の名前を変えられたのか、閉業されたのか分からず終(じま)いだ(15年という年月を感じる)。



 栄タクシーでベテラン遍路に教えて頂いた情報によると、新町温泉は歩き遍路に対して温泉利用料をお接待して頂けるとのことだった。
 当時のご主人は三代目で、先代から歩き遍路にお接待を続けているという。
 この日の宿は「寿康康寿庵(じゅこうこうじゅあん)(善根宿)を予定しており、お風呂が無いということなので、ここでお風呂に入れるのは有難かった。

 新町温泉にお昼過ぎに到着。歩き遍路をしているとお伝えしたところ、快くお接待して頂いた(感謝)。
 コインランドリーが併設されている為、入浴中に洗濯をした。



 後年四国旅行をしているが、徳島に行く時は毎回ここ(新町温泉)に立ち寄っている。
 三代目ご主人は引退されたのか息子さんが番台に座られていた。息子さんはシャイな方で、以前お遍路の際にお接待頂いた御礼を伝えると「ああ、そうですか」と毎回あっさりとした対応をされる。
 早朝の夜行バス到着後、レンタカー事務所営業開始前に立ち寄ることもあったし、レンタカー返却後に夜行バス出発までの間に利用することもあった(朝6時から夜22時まで営業されているのが有難い)。



 温泉に入ってスッキリした後、近くの金刀比羅(ことひら)神社に参拝。心機一転再び歩き出した。
 ここから恩山寺までは約11km。先を急ぐあまりペースを上げた(再び汗をかいてしまった)。



 恩山寺直前の遍路道にはお遍路中に亡くなられた方のものと思われる古いお墓があった。
 この後数日間、歩き遍路をされているご住職と道中何度か会っているが、確か初対面がこの恩山寺道中だったと思う。
 この方のお話では夕方の日没前後の時間は、山や森の中は歩かないようにとのこと。目に見えない世界の話になるが、彷徨(さまよ)う霊が憑(つ)いてしまうらしい。



 恩山寺は山の中にある静かなお寺で雰囲気が良かった。

 寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基が開基した当初は「大日山福生院密厳寺」と号した。

 元々は女人禁制だったが、弘仁5年(814年)に弘法大師が修行した際に、訪ねて来た母(玉依御前)の為に修法を行い、女人解禁の祈願を成就して母君を迎え入れた。
 玉依御前は本寺で出家・剃髪しその髪を奉納したことから、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改めたとされる。

 

 [第19番札所:橋池山(きょうちざん) 摩尼院(まにいん) 立江寺(たつえじ)]

・御本尊:延命地蔵菩薩
・創建年:(寺伝)天平19年(747年)
・開基:(寺伝)行基聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県小松島市



 18番札所から約4km。歩くペースを上げて何とか17時前に到着出来た。納経所が閉まる前に打ち終えて安堵したが、庭園が美しかったこと以外あまり覚えていない。

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 立江寺の寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基が開基したとされる。光明皇后の安産を祈願し、一寸八分(5.5cm)の黄金の地蔵菩薩(「子安の地蔵さん」と呼ばれている)を彫って御本尊とした。

 弘仁6年(815年)に、弘法大師が当寺を訪れた際、小さい御本尊は後世になって失われる恐れがあるということで、一刀三礼して高さ1.9mの延命地蔵像を刻み、その胎内に御本尊を納められた。
 このときに寺名を「立江寺」と改められたという。

 当時は現在地より400m程西の奥谷山清水寺の辺りに寺院が建てられており、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。

 立江寺「四国の総関所」(四国八十八ヶ所の根本道場)また「阿波の関所」として知られるらしい。

※関所寺:四国88ヶ所霊場には各県に一ヶ所ずつ「関所寺」が存在し、「お大師様の審判を受け、邪悪なものは先に進めない」とされており、県一番の難所とされている。

阿波国(徳島県):19番札所立江寺
土佐国(高知県):27番札所神峯寺(こうのみねじ)
伊予国(愛媛県):60番札所横峰寺
・讃岐(さぬき)国(香川県):66番札所雲辺寺(うんぺんじ)

 立江寺以外は山寺の為難所というのも分かるが、立江寺が難所とされたのは「黒髪お京肉付鐘の緒伝説」によるものらしい。情けないことだが、記事を書くにあたりネットで調べて初めてこの話を知った。いろいろ興味深いお寺だと思う。

※黒髪お京肉付鐘の緒伝説:愛人と密通し夫を殺害したお京が、愛人と共に四国巡礼の為立江寺を訪れた際に御本尊を拝もうとしたところ、突然髪が逆立って鐘の緒に巻き上げられた。
 ご住職に罪を白状し懺悔したところ、お京の頭の皮が剥がれたものの一命を取り留めた。
 その後二人は立江寺の近くに庵を設け、生涯その地で地蔵尊を拝んだとされる。

 境内に「肉付き鐘の緒の黒髪堂」があるらしいが見逃している(おどろおどろしいので結果的に見なくて良かったかもしれない)。



 立江寺から善根宿「寿康康寿庵」までは約4km。日が暮れないうちに辿り着きたかった為、更に急ぎ無事日没前に到着した。

 昨晩「栄タクシー」で会ったお遍路の半分以上がこの日も一緒に泊まることとなった。これもだと思う。
 高知県に入ると札所間の距離が長くなる為、1日に歩く距離が人によって違ってくるのだが、徳島県は札所間の距離が比較的近い為、別れても札所や善根宿で再会するといったケースが多々あった。



 寿康康寿庵は、近くにある法泉寺のご住職の善意で運営されている。
 明日はまた遍路ころがしに挑戦しなければならない。布団も用意されており、ここでゆっくり休養出来るのは有難かった。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(5)発心の道場(4)大日寺(13番札所)~井戸寺(17番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第13番札所:大栗山(おおぐりざん) 花蔵院(けぞういん) 大日寺]

・御本尊:十一面観世音菩薩
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県徳島市

※別称:一の宮



 3日目の晩から4日目の朝にかけて、テントの中で何度も目を覚ました。疲労から来る眠気で一旦寝るものの、寒さですぐに目を覚ましてしまう(寝袋だけでは寒さを防げなかった)。
 日中はウィンドブレーカーを羽織(はお)って事足りたが、やはり防寒着を持ってくるべきだった。
 出発前に家でテントを組み立てる練習はしていたものの、実際に屋外でテント泊を試していなかったのが悔やまれた。夜の寒さについて自分の認識が甘かったと思う。

 結局睡眠不足のまま朝を迎えた。疲労も抜けておらず体調は万全とは言い難かったが、速やかにテントを撤収して先に進まなくてはならない。
 今日の目的は、16番札所観音寺(かんおんじ)と17番札所井戸寺の間にある「栄タクシー」(善根宿)に辿り着くことだ。



 歩き出してしばらくすると、地名は覚えていないが農産物の無人直売所らしき屋台で、開店の準備をしている初老の男性に出会った。みかん等の果物を並べている。

 男性に挨拶をして話をしていると、隣の民家の女性から声が掛かった。ご近所さんなのか男性の奥さんなのか忘れてしまったが、お接待をしてくれると言う。

 この後、お二人から果物(みかん、グレープフルーツ)とパン、コーヒーをお接待頂いた(感謝)。
 特に温かいコーヒーは、冷え切った体にとってとても有難かった。

 当時の写真(私と一緒に記念撮影)を見ると、お二人の優しい人柄が滲(にじ)み出ているのが分かる。
 人の顔というのは、ある程度年齢を重ねるとどういう生き方をしてきたのか隠すことが出来ないと思う。
 柔和な表情、優しい眼差し…願わくば自分もお二人のようになりたいものだ(難しいかもしれないが)。

※ブログを書くに当たり Google MAP のストリ-トビューで確認したが、お接待をして頂いた場所は分からなかった(国道438号から徳島県道20号石井神山線または徳島県道21号神山鮎喰(あくい)いずれかを通ったと思われるが、正確に記録していなかった為両方のルートを調べたが見付からず)。建物を建て替えたのかもしれないし、景観が変わったのかもしれない。
 自分の中ではいつでも再訪・再会出来ると思っていたが、この世は無常であり15年という年月は決して短くないことを痛感した。
 当時四国で出会った方々の中には亡くなられた方もいらっしゃるかもしれないし、かつて存在した道や建物も無くなっているかもしれない。
 思い出を残すという意味で、もっとたくさん写真を撮っておくべきだったと思う(この考え方は、仏教的には執着になるのかもしれないが)。



 お二人にたくさんの元気をもらって再び歩き出し、大日寺にはお昼前に到着した。
 ちょうど団体客が発った後で境内には一時の静寂が訪れていた。

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 県道21号を挟んで、大日寺の反対側には一宮神社(阿波国一宮)(大日寺奥の院)(番外霊場)が鎮座する。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

 大日寺の寺伝によると、弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地にある「大師が森」護摩修行をされていた際、大日如来が現れて「この地は霊地であるから一寺を建立せよ」と告げた。
 大師は大日如来像を彫り、堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立して本尊として安置し、「大日寺」と称したという。

 平安時代末期に阿波一宮が当地に分詞され阿波一宮神社が造られると当寺はその別当となった。

 その後、長宗我部元親の兵火により焼失したが、江戸時代初期に徳島藩三代藩主蜂須賀光隆により再建された。
 江戸時代には一宮神社が札所、当寺は納経所として一宮寺と呼ばれるようになっていた(真念『四國邊路道指南』に記載有り)。

 明治時代の神仏分離以降、行基作と言われる本地仏十一面観音像を御本尊として一宮神社より大日寺の本堂に移し、それまでの御本尊大日如来脇仏とされた(大日如来像は秘仏とされている)。

本地仏:神の本地(正体、本来の姿)である仏。
 神仏習合思想の一つである本地垂迹(ほんじすいじゃく)では、神道の八百万(やおよろず)の神々は、仏が化身として日本の地に現れた権現(権(かり)に日本の神々の姿をとって現れること)であると考えられた。

阿波国一宮:上一宮大粟(かみいちのみやおおあわ)神社、一宮神社、大麻比古(おおあさひこ)神社八倉比売(やくらひめ)神社の四社。上一宮大粟神社徳島県名西(みょうざい)郡神山町、他三社は徳島県徳島市に鎮座。

※神宮寺(別当寺):神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神社の管理権を掌握する場合は別当寺と呼ばれる。



 [第14番札所:盛寿山(せいじゅざん) 延命院 常楽寺(じょうらくじ)]

・御本尊:弥勒菩薩
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県徳島市

※88ヶ所霊場の中で唯一弥勒菩薩像を御本尊とする。



 寺伝によると、弘法大師がこの地で修行をしていたところ、多くの菩薩を連れて来迎された弥勒菩薩を感得した。
 大師は霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立して御本尊とした。

 後に大師の甥に当たる真然(しんぜん、しんねん)僧正(そうじょう)が金堂を建てた。また、高野山の再興で知られる祈親(きしん)上人(定誉(じょうよ))によって講堂三重塔仁王門等が建立され七堂伽藍の大寺院となった。

 天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失したが、江戸時代初期に復興した。



 常楽寺の境内は自然の岩盤の上にあり、むき出しとなった断層を確認出来る。
 その形状から流水岩の庭園と呼ばれているらしい。

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 [第15番札所:薬王山 金色院(こんじきいん) 国分寺]

・御本尊:薬師如来
・創建年:天平勝宝8年(756年)以前
・開基:(寺伝)行基
・住所:徳島県徳島市

※宗派:曹洞宗(88ヶ所霊場の中で唯一の曹洞宗寺院)
※別称:阿波国分寺



 聖武天皇の勅命により諸国に建てられた国分寺の一つ。

※四国88ヶ所霊場国分寺

阿波国(徳島県):15番札所
土佐国(高知県):29番札所
伊予国(愛媛県):59番札所
・讃岐(さぬき)国(香川県):80番札所

 14番札所常楽寺から15番札所国分寺までは、その距離僅(わず)か800m。
 国分寺に着いたのが13時半頃だった。本日中に17番井戸寺を打ち終えたかったが間に合いそうだ。

 国分寺の寺伝によると、行基薬師如来を刻んで開基し、聖武天皇から釈迦如来大般若経光明皇后の位牌厨子が納められた。
 開基当初は法相宗(ほっそうしゅう、ほうそうしゅう)の寺院だったが、弘仁年間(810年~824年)に弘法大師が巡教された際、真言宗に改めている。

 天正年間(1573年~1592年)に土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失した。

 寛保元年(1741年)に阿波藩郡奉行速水角五郎によって再建。延享3年(1746年)に曹洞宗に改宗した。

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 [第16番札所:光耀山(こうようざん) 千手院 観音寺(かんおんじ)]

・御本尊:千手観世音菩薩
・創建年:(寺伝)天平13年(741年)
・開基:(寺伝)聖武天皇(勅願)
・住所:徳島県徳島市



 寺伝によると、聖武天皇国分寺(国分僧寺国分尼寺)建立の勅命を出した際、行基に命じて勅願道場として本寺を建立したとされている。

※勅願道場:ネットで調べたところ、勅願寺と同義と思われる。

勅願寺:寺院の寺格の一つ。天皇上皇の勅願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。

 弘仁7年(816年)に弘法大師がこの地を訪れ、御本尊として千手観音像、脇侍に不動明王毘沙門天を刻んで再興し、現在の寺名に改めたとされる。
 
 その後、天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火で罹災したが、万治2年(1659年)に宥応(ゆうおう)法師が再建した。

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 申し訳ないが撮影した写真が鐘楼(しょうろう)のみで、寺院については思い出せない。
 門を通って境内に入るとすぐ目の前に本堂がある為、私のデジカメではフレームに収まらず写真が撮れなかったのだろうか。

 この日参拝した13番札所から17番札所までは各札所の距離が近いということで、何とか17番まで打ち終えたいと逸(はや)る気持ちを止められず、心ここにあらずという状態だった可能性が考えられる(その為各寺院の印象が薄くなってしまっている)。
 札所間の距離が近い時に多かったが、急げば次の札所の納経も間に合うと焦る傾向があった。
 心を込めて参拝することよりも納経帳に御朱印を頂くことが優先され、スタンプラリーのようになってしまうケースがあったことが悔やまれる。



 [第17番札所:瑠璃山(るりざん) 真福院(しんぷくいん) 井戸寺]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)白鳳2年(673年)
・開基:(寺伝)天武天皇(勅願)
・住所:徳島県徳島市

 寺伝によると、天武天皇の勅願道場として阿波国国司に隣接した土地に建立され妙照寺と名付けられた。
 後に弘法大師が訪れた際、水不足に悩む村人の為に錫杖(しゃくじょう)で一夜にして井戸を掘ったことから、寺名を「井戸寺」に改めたという。



 お寺で美味しい井戸水を頂いたことを旅日記に記している。

 当時撮影した記念写真を見ると、自分の顔に疲労感は見られない。
 もしかしたら途中で「栄タクシー」(善根宿)に立ち寄ってリュックを置かせてもらい、荷物を軽くしてから参拝したのかもしれない。
 或いは、無事17番札所まで打ち終えた安堵の気持ちがあったのかもしれない(写真撮影時刻は16:40だった)。



 井戸寺参拝後、近辺を散策している。
 目的は、食料と服(テント泊時の防寒着)を購入することだった。特に防寒着については都市部にいる間に購入しないと田舎では手に入らない可能性が考えられた。

 この時立ち寄ったお店の名前は五分利堂で、果物をお接待して頂いた。
 4月ということもあり、お店で販売している服の中に目的の防寒着は無かった(確か婦人服が多かったと思う)が、不憫に思われたのかご主人より服をお接待して頂けるとのこと。
 詳細は旅日記に記録していないが、記憶が正しければご子息の服(フリース)だったと思う。突然の申し出に最初はお断りしたのだが、「不要な服」ということで有難く頂戴した。そのお言葉は優しさからの方便だったのかもしれないが、この服は道中大いに活用させて頂いた。

 五分利堂の皆さま、その節はどうもありがとうございました。

※五分利堂のHPに四国遍路についての特集ページがあったので紹介させて頂く(HPはこちら)。



 この日の宿は、善根宿である栄タクシーだ。
 栄タクシーのご主人は事業所の2階をお遍路向けに無料で提供しておられた。
 私が宿泊した晩には10人程の歩き遍路がいたが、スペース的にも用意された布団の数もまだ余裕があったと思う。
 お風呂も交替で使わせて頂いた。2日ぶりのお風呂はとても気持ち良かった。

 興味深かったのは、夕方栄タクシーのご主人が2階に確認に来られた際、遍路一人一人の顔を覗(のぞ)き込まれたことだ(まじまじと見つめる感じ)。
 この方は膨大な数の遍路の顔を見てきただけあって、顔(人相)を見ただけでその人がどういう人か分かるらしい。中には職業まで当てられた遍路もいた(はっきり言って占い師かと思った)。

 この日いた遍路の中で、ご主人に「あなた、いい顔をしているね~」と言わしめた遍路がいた。
 その方について覚えているのは、目の前の人に全身全霊を込めて接する人だったこと(その間、相手の時間分も生きることになる⇒人生の経験値が違う)。
 その方の歩んでこられた人生について断片的に伺ったが、はっきり申し上げて筆舌に尽くしがたい。それを乗り越えてこられて辿り着いた顔(表情)なのだろう。
 しかし天はどこまで試練を与えるのか、その方は最愛の家族を事故で一度に失って、その供養の為に四国に来られていた。



 話が脱線するが、後日30~40代位の女性の歩き遍路に出会った際、挨拶したところ無視された。
 その時はこちらの挨拶の声が聞こえなかったのかもしれないと思い、その翌日位に再会した時に挨拶したところ無言で睨(にら)み返された。
 お遍路とすれ違う際には挨拶をするようにしていたが、こういった対応は初めてだった。
 何か自分が悪いことをしたのか考えても分からなかったが、この方を見かけたら距離を取ることにした。

 しかし、ふとしたことからこの時の回答(らしきもの)が得られた。
 後日、前述の御仁(栄タクシーのご主人絶賛のお遍路)に再会したのだが、他のお遍路の話題になった際この女性を見かけたか聞いたところ、先日会ったとのこと。

 その時聞いた話によると、この方のご主人が自ら命を絶たれたらしく、供養の為四国巡礼をしているらしかった。その話を聞いて身内を亡くした者同士で涙を流しながら抱擁したそうだ。
 悲しみに暮れながら供養の為に巡礼していた女性から見れば、私のように旅行感覚で来ている遍路が許せなかったのかもしれない。

 この後四国巡礼中に、身内の供養の為に歩かれている(またはそのように思われる)方々に何度か出会っている。
 一人一人に巡礼の理由を確認したわけではないが、明らかに空気が違っており、旅を楽しんでいる雰囲気は感じられない。張り詰めた緊張感のようなものや、悲しい波動を感じることがあった。
 (私が出会ったお遍路の中で)供養の為に歩かれている方々は、私のように中途半端な服装ではなく、伝統的白装束(白衣(はくえ、びゃくえ)、笈摺(おいずる、おいずり)とも言う)に身を包まれた方の割合が多かった気がする。菅笠(すげかさ)をきちんと被り、手には手甲(てっこう)を装着し、足には脚絆(きゃはん)と足袋(たび)を履いていた。



 話を栄タクシーのご主人に戻す。
 ご主人はまず「通し打ち」(一周1200~1300kmを通しで周る巡礼法)の達成率が3割以下と伝え、ショックを受けた面々に対しその後一人ずつ予言をしておられた。
 それはその遍路が結願(88ヶ所巡礼達成)出来るかどうかについてである(どれ位当たっているかは不明だが、かなり的中率が高そうな雰囲気を感じた)。

 ちなみにご主人は私の顔を覗き込んだ際、結願出来るか首を傾(かし)げて判断しかねていた(「分かんね」と結論出ず)。



 残念なことに、栄タクシーは昨年閉業されており、善根宿も閉まったそうだ。
 旅の良き思い出となったご主人の善意に心から感謝したいと思う。

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(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(4)発心の道場(3)焼山寺(12番札所)

 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第12番札所:摩廬山(まろざん) 正寿院(しょうじゅいん) 焼山寺(しょうざんじ)]

・御本尊:虚空蔵(こくうぞう)菩薩
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)役小角(えんのおづぬ(おづの、おつの))(役行者)(えんのぎょうじゃ)
・住所:徳島県名西(みょうざい)郡神山町



 寺伝によると、大宝年間(701年~704年)に役小角が開山し、蔵王権現を祀(まつ)ったとされている。
 その後、弘法大師がこの地を訪れた際、神通力を持ち火を吐いて村人達を襲っていた大蛇を岩窟に封じ込めた。
 大蛇によって焼かれた山ということで、大師が「焼山寺」と名付けたと言われている。



 3日目の朝、早朝5時半過ぎに鴨島温泉鴨の湯善根宿を出発。
 まずは11番札所藤井寺(ふじいでら)へと向かう。道中朝陽を拝んだ。

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 藤井寺に着き、本堂大師堂にて納経(お経を唱えた)。
 いよいよこれから12番札所焼山寺への遍路道(焼山寺道)を歩くことになる。藤井寺(標高40m)から焼山寺(標高700m)までは全長12.9km( Wikipedia より)。アップダウンを繰り返す。
 一般的な目安としては6時間程かかるようだ(実際約6時間で焼山寺に到着したが、雨天の場合は道がぬかるんで更に時間がかかると思われた)。

 昨日鴨の湯の善根宿でベテラン遍路の方に聞いた話では、ここは遍路道の中でもお大師様(弘法大師)が歩かれた当時(約1200年前)に近い状態で残されている道とのことだった(もちろん地元の方により歩きやすいように補修・整備されている)。
 
 道中、お地蔵様(石仏)が祀(まつ)られていた。
 この後遍路道を何度も歩くことになるが、道中見かけた墓石やお地蔵様は(全てとは言えないが)そこで亡くなられた歩き遍路のお墓かと思われた。
 古(いにしえ)のお遍路達は死を覚悟しながら何を思いこの地を歩いたのだろうか。



 しばらく歩くと長戸(ちょうど)(御本尊:弘法大師)(番外霊場)に到着した(標高440m、藤井寺より3.2km)。

※長戸庵の由来:弘法大師焼山寺へ向かう道中、最初の休憩時に通りかかった老人に加持を施し、老人の足の痛みを治した。
 老人は修業山長戸大師堂と名付けた仏堂を建て弘法大師像を祀(まつ)った。
 長戸庵の「ちょうど」は、一息入れるのに「ちょうど塩梅(あんばい)良き」場所ということらしい。

※番外霊場:四国88ヶ所霊場の巡拝者が立ち寄ることが多い寺社・修行場・霊跡(れいせき)等(小さな祠(ほこら)やお地蔵様等も含む)で、成立の縁起に弘法大師との関わりが深いところが多い。

 荷物が重いが、まだ体力に余裕がある。少し休憩して先に進んだ。



 長戸庵から柳水(りゅうすい)(御本尊:弘法大師)(番外霊場)(標高500m)までは3.4km。

※柳水庵の由来:自身で彫った弘法大師像を納めた場所。休憩時に水が無かった為、弘法大師が柳の枝に加持を施して堀ったところ、水が湧き出した(「柳の水」と呼ばれる湧水がある)。

 柳水庵には宿泊施設(民宿?)のような建物があったが、無人となっていた。
 ここで軽く食事休憩を取ってから、再び歩き始めた。



 柳水庵から次の仏堂浄蓮(じょうれん)庵(一本杉庵)(御本尊:阿弥陀如来)(番外霊場)までは2.2km。ここは標高745mで、焼山寺道の最高地点らしい(この後一旦下ってから再び上って焼山寺(標高705m)へと向かう)。

※浄蓮庵の由来:正式名称は、一宿山(いっしゅくざん)浄蓮庵弘法大師が、ここでの仮眠時に夢に出現した阿弥陀如来像を彫って納めた。
 弘法大師お手植えという「左右内の一本杉」(徳島県指定天然記念物)(樹高約30m、幹周7.62m)があることから、一本杉庵とも呼ばれる。

焼山寺焼山寺山(しょうさんじさん)(標高938m)の八合目付近にあり、88ヶ所霊場の中で3番目に標高が高い。

※標高の高い札所ランキング(本堂の位置で比較)

 (1位)66番札所雲辺寺(うんぺんじ)(標高900m)
 (2位)60番札所横峰寺(標高745m)
 (3位)12番札所焼山寺(標高700m) ※この記事
 (4位)45番札所岩屋寺(標高585m)
 (5位)44番札所大寶寺(大宝寺)(だいほうじ)(標高560m)
 (6位)21番札所太龍寺(たいりゅうじ)(標高505m)
 (7位)20番札所鶴林寺(かくりんじ)(標高495m)
 (8位)88番札所大窪寺(標高450m)
 (9位)27番札所神峯寺(こうのみねじ)(標高430m)
 (10位)65番札所三角寺(標高355m)

 焼山寺道の最高地点ということもあり、ここに辿り着くまでの上りが焼山寺道の中で一番きつかった思い出がある。

 ここでは、大杉(一本杉)の下に建てられた弘法大師が参拝者を迎えてくれる。
 到着時立派な大杉に圧倒されたが、その下でお大師様が優しく迎えてくれたような気がした。

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 ここで再び食事休憩を取った後、出発した。



 浄蓮庵から焼山寺までは4.1km。まずは左右内(そうち)集落(標高400m)まで一旦下る。
 左右内集落には菜の花等の春の花が咲いており、元気をもらった。
 そこから焼山寺まで再び標高差300mを上らなくてはならないのだが、不思議と力が湧いてきた。



 後日の話になるが、昨晩会ったベテラン遍路に再会した際焼山寺への遍路道でお大師様の声を聴いたかい?」と言われた。
 鴨の湯の善根宿では教えて頂けなかったのだが、お大師様が歩かれた当時の状態が保たれているこの遍路道では、お大師様が歩き遍路にエールを送ってくれるらしい。

 その話を聞いた時、思い出すと(そうあって欲しいという自分の願望も含まれていたかもしれないが、)その声を聴いたような気がした。
 それは最後の杉林を抜けるところで、お大師様に歩くエネルギーを頂いた感覚があり、足取りが軽くなったのを覚えている(単にゴールに近付いてテンションが高くなったからかもしれないが)。



 焼山寺には正午過ぎに到着した。既に多くのお遍路さん(団体ツアーの方々)が境内にいて、私の荷物を見て労(ねぎら)いの言葉をかけて下さる方が多かった。

 やはり、山寺の雰囲気は好きだ。街中にあるお寺と比べ参拝するのは大変だが、山の気に包まれて気持ちが良い。

 (写真は、山門(仁王門))

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 この日一番大変だったのは、焼山寺からの歩きだった。
 13番札所大日寺へと向かうに当たり、遠回りになるが遍路道(山道)を歩かずに一旦国道438号へ出ることにした(大日寺までおよそ26km)。
 アスファルトの道の方が歩きやすいだろうという判断だったが、既に疲労が蓄積されており、下りを歩くのがつらかった。踏ん張りが効かず、歩くペースが落ちていく。

 結局この日(3日目)は、日没後周囲が暗くなるまで歩き、この旅初めてのテント泊をした。





(旅した時期:2006年)

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四国巡礼編(3)発心の道場(2)安楽寺(6番札所)~藤井寺(11番札所)

 (各札所の写真をUPしたいのですが、自分を写した記念写真のみの場合は掲載無しとなることをご容赦下さい。)



 【発心(ほっしん)の道場(徳島県)】



 [第6番札所:温泉山 瑠璃光院(るりこういん) 安楽寺]

・御本尊:薬師如来、胎内仏:薬師如来
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県板野郡上板町



 2日目の朝、目覚めてから改めて荷物の確認をした。
 (1)どうしても必要な物と(2)あった方が良い物に分け、(2)については後で買えるものは宿の方に処分してもらうことにした。
 ほとんど減らせる物は無かったが、気分的に少し楽になった。

・宿に置いて行った物:折り畳み傘、洗顔フォーム、歯磨き粉

 出発前に、昨日助言を頂いた方よりみかんを頂いた。
 更に宿の方からマッチと5円玉を頂いた。5円=御縁ということらしい。マッチはこの後札所での参拝時に使わせて頂いた。
 朝から皆さんにお接待して頂いたことに感謝した。

 午前7時過ぎに安楽寺に到着。当初の計画では、初日にここまで打ち終える予定だったが達成出来ていなかった。歩き遍路は出発前の予想以上に大変だったということだろう。

 早朝の為か、境内には他に参拝者はいなかった。私が本日初めての参拝者だと思われる。境内の庭園が美しい。静かで天気も良く、清々しい朝だった。

 安楽寺の寺伝によると、弘仁6年(815年)に現在地より約2km離れた安楽寺(温泉湯治の名所)に、弘法大師が堂宇(どうう)(四方に張り出した屋根のある建物)を建立し薬師如来を刻んで御本尊としたとされる。



 [第7番札所:光明山 蓮華院(れんげいん) 十楽寺(じゅうらくじ)]

・御本尊:阿弥陀如来
・創建年:(寺伝)大同年間(806~810)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県阿波市



 寺伝によれば、大同年間に弘法大師がこの地に逗留された際、感得した阿弥陀如来像を彫って御本尊として祀(まつ)ったと伝えられている。

 大師は、人間として避けられない八苦(生、老、病、死等)を離れ、極楽浄土に往生すると受けられる十の光明に輝く楽しみを得られるように山号・寺名を「光明山十楽寺」とされたといわれる。

 当初は現在地より3km程離れた十楽寺谷の堂ヶ原に堂宇を建立したそうだが、天正10年(1528年)に長宗我部元親による兵火で全焼した(御本尊は焼失を免れた)。
 その後、寛永12年(1635年)に現在の地に再建された。



 6番札所から7番札所までは約1.2kmと比較的近い。
 道中、熊野神社を通りかかったので参拝した。



 十楽寺に着いた午前8時頃、ちょうど遍路ツアーの団体客が到着して場の雰囲気が賑やかになった。ツアーガイドさんは、真っ先に納経所に向かっていた。
 この後よく見かける光景だが、ツアーの場合全員の納経帳に押印するのに時間がかかる為、他のツアー会社よりも先に納経所に着くか時間との闘いのようだ(先を越されるとその分待ち時間が長くなる為)。

 とは言っても歩き遍路には優しく、ツアーガイドの方には順番を何度も譲って頂いた記憶がある。団体客全員分の納経授与を待つと時間がかかるので有難かった。



 [第8番札所:普明山(ふみょうざん) 真光院(しんこういん) 熊谷寺(くまだにじ)]

・御本尊:千手観世音菩薩
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県阿波市



 熊谷寺の寺伝によると、弘仁6年(815年)に弘法大師閼於(あか)ヶ谷で修行した際、熊野の飛瀧(ひろう)権現(熊野那智大社の別宮飛瀧神社の御祭神)が現れ「末世の衆生を永く済度(さいど)(苦しみや困難から救うこと)せよ」と告げられ、1寸8分(約5.5cm)の金の観世音菩薩像を授けた。
 大師はその場に堂宇を建立し、霊木に自ら一刀三礼(一刻み毎に三度礼拝)して等身大の千手観音像を彫り、その胎内に金の観音像を納めて御本尊とされたと伝えられている。
 その後何度も火災を経験しているが、1927年(昭和2年)の火災では本堂と共に大師作と伝えられていた御本尊も焼失。
 再建された本堂は1971年(昭和46年)に完成し、新造された御本尊が開眼した。



 熊谷寺で印象に残っているのは、歴史を感じさせる山門(仁王門)だ。88ヶ所霊場の中でも最大級らしい(間口:9m、高さ:12.3m)。
 寺院は何度か火災にあったということで、山門が建てられた当時と比べ周囲の風景が変わっていることだろう。

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 [第9番札所:正覚山(しょうかくざん) 菩提院(ぼだいいん) 法輪寺]

・御本尊:釈迦如来(涅槃(ねはん)像)
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県阿波市

※88ヶ所霊場の中で唯一涅槃像を御本尊とする。



 寺伝によると、弘仁6年に弘法大師がこの地方で巡教された際、白蛇を見付けられた。 白蛇は仏の使いとされていることから、大師は釈迦涅槃像を彫り、御本尊として寺を開基した。

 当初は現在地より約4km北の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺と称した。

 天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失後、正保年間(1644年~1648年)に現在地に移転して再建。当時の住職が「転法林で覚りをひらいた」ことから、現在の山号と寺名に改められた。

 その後何度も火災に見舞われ、安政6年(1859年)には鐘楼堂を残して全焼。明治になって現在の堂宇が建てられた。



 当時の自分の写真を見ると、のどかなお寺で楽しんで参拝していたようだ。

 ちなみにこのお寺は健脚祈願で有名らしく、本堂には草鞋(くさわらじ)を奉納する方が多いそうだが、当時はその情報を知らなかったと思う。

 各札所には由緒書の看板が設置されていると思うが、見かけたらざっと目を通す位の感覚だった。その為、寺院の由緒を知らぬまま参拝していたことも多々あったと思う。
 今であればスマホで調べられるが、当時情報を得るとすれば持参していた書籍を見る位で、そこには簡単な説明しか記載されていなかった。

 旅の予算が限られていることもあり、いつも先を急いでいたのだろう。札所の歴史を振り返りながら参拝を楽しむという心の余裕は欠けていたと思う。
 その点、ツアーで巡る場合はガイドさんが説明してくれるので、札所についての理解が深まることだろう。実際札所にてツアーガイドの説明に聞き耳を立てた思い出がある。



 [第10番札所:得度山(とくどさん) 灌頂院(かんじょういん) 切幡寺(きりはたじ)]

・御本尊:千手観世音菩薩
・創建年:(寺伝)弘仁年間(810~824)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県阿波市

※別称:幡切り観音



 切幡寺の寺伝によれば、修行中の弘法大師が修行中に綻(ほころ)びた僧衣を繕(つくろ)う為の布を所望された際、この地の機織り娘が織りかけの布を惜しげもなく切って差し出した。
 感動した大師は娘の願いを聞き、娘の父母の供養の為千手観音像を彫った。更に娘を得度させ灌頂を授けたところ、娘は即身成仏し千手観音菩薩となったという。
 このことを嵯峨天皇に奏上した後、大師は天皇の勅願により堂宇を建立。自身の彫った千手観音像を南向きに、娘が即身成仏した千手観音像を北向きに安置し御本尊として開基したと伝えられる。

※灌頂:密教において、頭頂に水を灌(そそ)いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正統な継承者とする為の儀式。



 本堂に着くまで計333段の階段を登る。切幡寺に来るまでそのことを知らなかった為、階段を見て途方に暮れたが、登るしかない。
 先の札所でもっとハードな登りが待ち受けているかと思うと気が重くなるが、今は目の前の一歩一歩に集中しようと心がけた。
 当時ツアーの団体客も階段を登られていたが、階段を登るのが難しい方向けに納経所近くに駐車場があるらしい。

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 前回も書いたが、1番2番札所よりお遍路グッズの値段が安くなっていることに驚いた。
 逆に言うと、札所の中で1番霊山寺(りょうぜんじ)が最も高い値段で販売していると思われるが、そこには1番札所という付加価値が含まれているのだろう。



 [第11番札所:金剛山 一乗院 藤井寺(ふじいでら)]

・御本尊:薬師如来
・創建年:(寺伝)弘仁6年(815年)
・開基:(寺伝)空海
・住所:徳島県吉野川市

※四国88ヶ所霊場の中で唯一、名称の【寺】を「じ」ではなく「てら」と読む

※宗派:臨済宗(88ヶ所霊場臨済宗寺院は藤井寺33番札所雪蹊寺(せっけいじ)のみ)



 藤井寺の寺伝によると、弘法大師弘仁6年(815年)(42歳の厄年の時)、自らの厄祓いと衆生の安寧を願って薬師如来像を刻み、堂宇を建立した。
 そこから約200m程上に位置する八畳岩金剛不壊といわれる護摩壇を築き七日間の修法を行ったのが開創であると伝えられている。堂宇の前に五色の藤を植えたという由緒より、「金剛山藤井寺」と称されるようになった。
 寺院は何度か火災にあっている為、現在の伽藍は万延元年(1860年)に再建されたものである。



 11番札所までの道中、うどん亭八幡にて昼食を取った。
 旅日記に記録していないので自分の記憶が間違っているかもしれないが、それまでに立ち寄った場所(10番札所だろうか)でサービス券を手に入れていたような気がする。コーヒー1杯をサービスして頂いた(お接待)。
 食事の写真も無く、注文内容をメモしていないが美味しい食事だった。遍路の団体ツアーの方も来られていたので店はお遍路客でいっぱいだった。
 こうしてきちんとお店に入って昼食を取るというのは幸せな時間だと思う(先を急ぐあまり、コンビニで買ったおにぎりやパンで昼食を済ませることが圧倒的に多かった)。
 食堂やレストランで食事を取った際は、ほぼ毎回と言っていいほどお接待をして頂いた記憶がある(飲食物のサービスや割引等)。お接待して頂いた方々に改めて感謝したいと思う。

 切幡寺から藤井寺までは約10km。今までの中で札所間の距離が一番長い。
 ぽかぽかとした陽気だったこともあり昼食後に眠くなったが、今日中に藤井寺を打ち終えなくてはならない。明日は最初の難所である12番札所焼山寺(しょうざんじ)に向け、朝一番に出発しなければならないからだ。



 ようやく藤井寺に着いたのは16時前だった。山寺の雰囲気を感じるお寺だ。
 明日はここから始まる焼山寺へのへんろ道をひたすら歩くことになる。山の中を歩く昔ながらのへんろ道だ。



 この日(お遍路2日目)は、鴨島温泉鴨の湯に併設された善根宿に宿泊した。
 道中知り合った歩き遍路の方から得た情報では、お風呂に入れば1泊のみ無料で利用可能とのことだった(現在は、お風呂に入らなくても利用可能かもしれないが詳細は不明)。
 近くのスーパーで明日の分までの食料を購入し、温泉に入ってスッキリした後、この善根宿で出会った歩き遍路達と食事をしながら語り合った。

 本日結願(88ヶ所巡礼達成)したという青年が、目をキラキラさせながら体験談を語っていたところ、一人のご老人が現れた。
 地元では有名な方らしく、後で知ったのだがNHKの番組(テーマ:四国遍路)でインタビューを受けられたそうだ。
 この方にジュースとアイス、四国遍路の情報をまとめた印刷物をお接待頂いた。
 出身地四国遍路の目的等の簡単な質問を受けたが、特に自分から話したがる方でもなく、我々の話をそうかそうかとニコニコと頷(うなず)きながら聞かれていた姿が印象に残っている。



 話が脱線するが、後年旅行で2回、仕事で1回四国を訪問している。
 四国旅行の1回目は2014年、四国88ヶ所霊場開創1200年という記念の年だった。
 仕事の休みの関係で、[夜行バスで朝に徳島到着⇒レンタカーで観光⇒その日の夜に夜行バスで徳島発]というハードスケジュールだったが、徳島を発つ前に鴨の湯に立ち寄った。
 昔お世話になった御礼を受付の方に伝え、温泉に入って疲れを癒した後、お遍路さんに渡すべくこの善根宿にお茶や食料を持って行った。
 すると時代の流れなのか、その日いたのはオーストラリア人の旅行者で、3週間かけて自転車でお遍路をして、本日結願したとのことだった。
 前回お接待して頂いたご老人とお会い出来なかったのは残念だったが、瞳を輝かせながら結願の喜びを語っている青年に会えて、とても元気をもらった気がした。
 自分がして頂いたように彼にお接待をしたところ、とても喜んでくれた。お接待をする理由はいろいろあると思うが、相手が喜んでくれるのが嬉しいと思う。



 話を2006年に戻すが、この善根宿には他にもお遍路の方が宿泊されており、その方は四国を何周もされているベテラン遍路だった。
 ご老人が帰られてからその方も話に加わり、これから先の札所情報をいろいろ教えて頂いたのだが、そこで初めて「遍路ころがし」という言葉を知った。
 遍路が転がり落ちる位の急斜面という意味だよと笑っていたが、明日その最初の遍路ころがしが待ち構えている。しかも、この先何ヶ所も遍路ころがしが存在するようだ。

※遍路ころがし:個人的には、この言葉を初めて知った時、「転がす」「転ぶ」という響きから江戸時代の禁教令を思い出した(禁教令発令後、キリシタンに棄教を迫り、棄教したキリシタンを「転びキリシタン」と呼んだ)。
 かつて転がった遍路は四国遍路を止めてしまったのかもしれない。

 話を聞いて心配したところで、行ってみないことにはどうなるかは分からない。今自分に出来ることと言えば、早起きをしてなるべく早く出発することだけだ。





(旅した時期:2006年)

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