旅拝

過去の旅の記録です。

西蔵編(37)パタン

 カトマンドゥ(カトマンズ)( Kathmandu )滞在中、近郊の古都パタン( Patan )(世界遺産)を訪問している。
 パタンの正式名称はサンスクリット語でラリトプル( Lalitpur )、ネワール語ではイェラ( Yala )で、どちらも「美の都」という意味らしい。
 この街に住むネワール族は彫刻や絵画などの芸術に優れ、パタンは工芸の街としても知られている。

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 パタンの街は、バグワティ川を挟んで、カトマンドゥのすぐ南に位置する。
 住民の8割が仏教徒で、ブッダヴィシュヌ神の化身とされている。

 街の中心ダルバール広場の周りには、美しいネパール建築の寺院が数多く見られる。
 7年ぶりに見るパタンの街は、昔より整備されているように思われた。

 (下記写真は、シヴァ神を祀るクンベシュワール寺院(1392年建立)。五重塔を持つ)

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 (下記写真は、マハボーダ寺院(1600年建立)。(ブッダ・ガヤ(インド)のマハボーディー寺院を模したもの(高さ約30m))

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 この街でお土産にA3サイズ位のタンカ(布に描かれたチベット仏画、掛け軸タイプ)を購入した。
 1200ルピー(当時のレートで2000円弱)という値段だったが、品質に比べ安く感じられた為「この値段でいいのか」と店員に確認したところ、「この日一番最初の客だからいい」とのこと(値段のつり上げは行われなかった)。

 ゲン担(かつ)ぎなのかは分からないが、海外では同じような対応を何度か経験している。
 一日の最初の客というのは、その日の売上を占う意味で重要なのかもしれない。彼ら商売人の経験則での判断なのだろう。



※地図





(旅した時期:2004年)

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おまけ(その9)経験について

西蔵編(36)カトマンドゥ(後編)のおまけ記事



 年齢を重ねるにつれ、新しいことにチャレンジする意欲が薄れつつある(ロボットのように同じような毎日を繰り返している)。未知の世界に飛び込むことに不安を感じているのかもしれない。

 前回の記事で登場した岩崎圭一さんは、無一文で生きられるか試す為に、日本でホームレス生活を送っている。
 その経験により、無一文でも生きていけるという自信を持って日本を離れ、旅を始めたそうだ。無一文状態に対する不安や恐怖を克服しているのがすごいと思う。

 何か新しいことを始める前に不安や恐怖といった感情を持つことはある意味仕方の無いことだが、その負の感情は時として足枷(あしかせ)になりうる為、可能であれば手放したい。
 自分に出来ることと言えば、視点を変えることだろうか。



 何かを成し遂げたいという場合、目標・ゴールを設定しそこから逆算していくというのが一般的だ。
 目標を達成する為の必要条件を考えた時に、今の自分に何が足らないのか。場合によっては、人の力を借りることも重要だ。

 設定した目標が高くて実現が難しそうな場合、出来なかった場合のことを考えると不安になるかもしれない。
 そして途中で挫折したら全てが無駄になると思うかもしれない。
 だが、たとえ途中で挫折したとしても、それは立派な経験だと思う。
 100点を目指して1点しか取れなかったとしても、何もしない(0点)よりはずっと良い。
 一歩を踏み出すことを恐れないようにしたい。



※ここから先は、精神世界・スピリチュアル的な話になる為、興味のある方のみ読んで下さい。



 いつからか、私は転生というものを信じるようになった(いつか機会があれば記事にしたい)。
 以下、書籍等を通じて得た情報を自分なりにまとめてみたい(あくまで私個人の視点からまとめたものです)。



(1)人生の目的とは何か
(2)指導霊について
(3)創造について



(1)人生の目的とは何か

 人生の目的、この世に生まれてきた目的は何か、一言で言うならば経験することだと思う。

 人は肉体の死を迎え魂だけの状態に戻った時に、今所持しているもの(所有物)をほとんど失ってしまうが、経験だけは残る。
 そしてその経験を来世に持ち込める。

 たとえば、私が100歳まで生きてから小説家になることを決意したとする。その1年後に亡くなったとしても、1年間蓄積された経験(小説家になる為に努力した経験)が来世で活かされる(何かを始めるのに遅すぎるということはない)
 ある分野における天才少年・少女と呼ばれる人達がいるが、前世で蓄積された経験が既に土台として存在している。

 世の為人の為に生きる経験が出来れば良いが、何が世の為人の為になるかは分からない(本人の死後になってようやく評価される実績もある)。
 下記(2)にも関連してくるが、自分の直感を信じることが大切だと思う。



(2)指導霊について

 目に見えない世界の話になるが、守護霊という存在の他に、指導霊というものも存在する。
 指導霊は、人との出会いをセッティングしたり、閃(ひらめ)き・インスピレーション等を通じて情報をくれたり、いろいろサポートしてくれる存在だ。

 たとえば、私が彫刻家になることを決意した時に、かつて過去生で彫刻家を志した人の霊が指導霊として付き、その後の人生を導いてくれる。
 彫刻を彫るスキルが上がって行くと、指導霊が替わる(上級指導霊が付く(例)過去生で彫刻家を志した人の霊から、過去生で彫刻家だった人の霊に交替))。

 自分の意志と意識が指導霊を呼び、環境をセッティングしていく。の一言で片付けるのは簡単だが、運を呼んだきっかけは自分自身が作っている。

 守護霊や指導霊は感謝されると喜ぶらしい。「おかげさまで」という周囲への感謝の心を常に持っていたいものだ。



(3)創造について

 上記(1)(2)と比べ、今回の記事の趣旨(経験について)から少し外れるが、前述ドランヴァロ・メルキゼデク氏は、創造には二通りの方法があると言っている。

・脳で創造する
 この方法で創造されたものは、二極性・二元性(正負両面)がある(自分に欲しいものだけでなく、欲しくないものも引き寄せてしまう)。

※個人的には、自分のエゴ(我良しの心)が関与する方法の為、不安な感情等も反映してしまうのかもしれないと思う。

・心臓(ハート)で創造する
 ハート(の聖なる空間)から第三の目を通して知覚する(第六の感覚機能を使用)。脳で創造を行うよりも高い意識レベルで創造を行う為、創造されたものに二元性は生じない。



 最後に余談になるが、experience (経験)の語源は、ラテン語の experiri (試す)で、繰り返し試して得た知識=経験ということらしい。



 (追記)

 この記事を投稿した後、YOUTUBEでたまたま下記の動画を発見したので紹介させて頂く。

無意識のブロックとネガティビティを破壊、396 hzソルフェジオ、バイノーラルビート ⇒ 動画はこちら



 (更に追記(2020年12月13日))

・上記項目((3)創造について)の追記

 成功したい(目標を達成したい、欲しいものを手に入れたい)という時、もちろん本人の努力が重要だと思うが、他者からのサポートというものが大事だと思う(他者からのサポートしたいという気持ちが幸運をもたらす)

 極端な話になるが、自分の成功の為に動くよりも他者の成功の為に動く方が、幸運を呼び良い結果をもたらすような気がしている。自分のエゴ(我良しの心)が働きにくくなるからかもしれない。

 一つ例を挙げたいと思う。
 ビギナーズ・ラック(初心者がしばしば持つとされる幸運)という言葉があるが、何かを初体験する時、トライする前に経験者に相談していないだろうか?
 相談された人は、初めてトライする相談者に楽しい経験をして、その世界をもっと知って欲しい、興味を持って欲しいと思うことが多いだろう。
 その思いが、相談者(初心者)に幸運をもたらしていると考えられる。

 あなたが、かつてビギナーズ・ラックを経験した時、誰かサポートしてくれた方がいませんでしたか?





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西蔵編(36)カトマンドゥ(後編)

 カトマンドゥ(カトマンズ)( Kathmandu )滞在中に出会った人達について書き記しておきたいと思う。

 まずは、インド人宝石商 Mr.O.P. (下記写真の人物)。
 旅仲間が宝石(ターコイズ)を買いたいということで訪れた店のオーナーだった。人物観察が鋭く、旅仲間の特徴を良く捉えていた。
 何故ネパールに来て店を開いているのか、理由を聞いたような気がするが旅日記に書き記していない為、今となっては詳細が分からない(思い出せない)。

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 個人的な意見だが、(聖者やサドゥーと呼ばれる人達だけでなく、一般人を含めて)インドでは転生の回数が多い人達の生まれる割合が高い気がする(瞳を見た時に魂の重さを感じる)。



 カトマンドゥでは、印象深い旅人にも出会っている。
 
 その方の名前は岩崎圭一さん。旅人達からは「けいさん」と呼ばれていた。お金を持っていなかった。
 異国の人や旅人からの善意(四国遍路で言うお接待)と、旅先での大道芸(手品)で得たお金で旅をしていた(現地の子供の家庭教師をして収入を得たこともあったとのこと)。移動手段は自転車(ママチャリ)だった。



 20人程の日本人旅行者達と食事をする機会があり、その場に彼もいた。
 その食事会には、旅のブログを書く旅ブロガー(しかも人気ブロガー)なる方々がいて、彼はその一人だった。

※後に自分が旅のブログを書くとは全く想像していなかった。箇条書きの旅日記と当時の写真、そして自分自身の記憶を頼りにブログを書くのは何とも心許(もと)ないが、仕方がない。



 食事会の場では、熱い議論が交わされていた。

 彼は言う。「エベレストを登頂したい」と。

 その場にいるほとんどの旅人が「無理だ」と言っていた(エベレスト登頂の費用は、(当時)最低でも100万円かかると言われていた)。
 初対面ということで口にはしなかったが、話を聞きながら正直難しいのではないかと思った。
 何故なら、彼は今回の食事代も他の旅人のカンパに頼っている状態なのだ。



 しかしその数年後、ふと思い出して彼のブログを覗(のぞ)いて見ると、そこには彼がエベレスト登頂に成功した写真がUPされていた。
 どうやら、ブログを通してスポンサーが付いたようだ。頭を「ガツン」と殴られたような衝撃を受けた。

 彼はまだ日本に帰国していない。しかし、その生き様(旅人生)は日本含め世界各地でマスメディアに取り上げられ、世界中の多くの人達の心に響いたと思う。



 Where there is a will, there is a way. (意志のあるところ道は通じる。)

 この言葉を地で行くような旅人生だ。

 けいさんの更なるご活躍をお祈りします。多々保重、一路平安 ‼



※今回の記事を書くにあたり、久しぶりに彼のブログを拝見したところ、Yahoo!ジオシティーズのサービス終了に伴い、新規ブログへ移行していた。以下、岩崎圭一さんのブログ・動画を紹介させて頂く。

けいの無銭旅行記EXP ⇒ こちら

けいの無銭旅行記 ⇒ こちら

・けいさんのYOUTUBEチャンネル ⇒ こちら



※今回の記事に関するおまけ記事はこちら



 (追記)

 2006年に現役を引退した元プロ野球選手の新庄剛志さんが、現役復帰を目指し先日(12月7日)にトライアウトを受けた。
 復帰を決意してからおよそ一年間の集大成が先日のトライアウトだったと思う。

 新庄さんが再びプロ野球の世界に戻るのか、人事を尽くして天命を待つという状況だが、夢を叶えて欲しいところだ。

 ただ、結果については次の章の物語だと思う。結果がどうなるかは分からないが、新庄さんは彼の物語(人生)の一章を見事に描き切った(やり遂げた)のだ。

 たくさんの勇気をもらったことに感謝したい。そして心から拍手を贈りたいと思う。



※地図





(旅した時期:2004年)

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西蔵編(35)カトマンドゥ(前編)

 7年ぶりのカトマンドゥ(カトマンズ)( Kathmandu )の街は、とても刺激的に見えた。
 街が明るくなっており、商店の窓に飾られている商品の品質が、以前と比べて良くなっているように感じた(この街でベルトやサンダルを購入している)。
 また、旅行者の多いタメル地区には日本食レストランが増えており、美味しかったので毎日日本食を食べたことを覚えている。

 カトマンドゥに着いた翌日、旅行代理店に赴(おもむ)き航空券を購入した。カトマンドゥ~香港までと、香港~台北(台湾)までのチケットだ(空港税込みで$360)。



 その後、スワヤンンブナート(通称モンキー・テンプル)( Swayambhunath )(世界遺産)へ行った。

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 ここは、カトマンドゥの中心から西へ2kmに位置するネパール最古の仏教寺院で、カトマンドゥ盆地がかつて湖だった時代に、一輪の蓮の花から大日如来が姿を現した場所とされている。

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 大日如来の放つ光を見て立ち寄った文殊菩薩がその剣で川を作り、悪行を行う大蛇を湖水とともに追い出したという言い伝えが残っている。

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 このチョルテン(仏塔、卒塔婆ストゥーパ)は、文殊菩薩(後にゴータマ・シッダールタとして生まれ変わる)大日如来を万物の創造者として称え奉納したものが始まりだそうだ。



 カトマンドゥ滞在3日目には、ボダナート( Boudhanath )(世界遺産)を参拝している。

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 ボダナートは、カトマンドゥの東7kmに位置する仏教寺院で、ネパール最大の仏塔があることで有名だ(高さ38m、外周100m)。

※「ボダ」は仏陀の、仏教の、知恵の、「ナート」は主人、神という意味

 ボダナートの起源については、ネワール族(カトマンズ盆地一帯に居住する民族)仏教徒チベット仏教徒とで異なる伝説が残っている。

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 ここは、チベタン(チベット人)亡命者とネパール人仏教徒の聖地となっており、多くの巡礼者で賑わっている。

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 147面ある土台の壁にはマニ車が備え付けられており、真言「オムマニペメフム」(意味:清らかな蓮の花の咲く浄土を)を唱えながらそのマニ車を回していく巡礼者もいる。
 ドームの下には108の仏像が彫られている。



 このチョルテンは曼荼羅(マンダラ)の構造になっている。

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(1)地水火風空の宇宙を構成する5大エネルギーを象徴しているという説

 地:4層の台座
 水:半円球のドーム
 火:四方を見据えるブッダの知恵の目と13段の尖塔
 風:尖塔上の傘
 空:更に先端にある小尖塔

(2)別の説

 ブッダの悟りと仏教の本質:チョルテン
 瞑想:台座
 煩悩から解放された無の境地:ドーム
 涅槃(ねはん)に至るまでの13の段階:ブッダの智恵の目が描かれた13段の尖塔

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※地図





(旅した時期:2004年)

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西蔵編(34)ダム~バラビセ~カトマンドゥ

 ダム(樟木)(ネパール語でカサ( Khasa ))の街で1泊後、徒歩で中国側のイミグレ(イミグレーション・オフィス)に向かった。
 残念なことに、ここでチベット入境許可証を回収されてしまった。アリ(阿里)地区の入境許可証には行き先の欄に【神山】(カイラスの意)と書かれており、記念に残したかったのだが交渉しても断られた(パスポートに挟んでおいたのが失敗だった)。

 中国側のイミグレのあるダム(標高2350m)から、ネパール側のイミグレのあるコダリ( Kodari )(標高2300m)までは、曲がりくねった車道を通ると約10km、ポーターの通る山道は約3kmある。
 この間、タクシーかヒッチハイクで移動するのが一般的らしい。今回もヒッチハイクをすることにした。



 イミグレの先で声を掛ける車を待っていると、最初に来たのはトラックだった。
 どこか見覚えがあると思ったら、なんとそれは昨日までお世話になったトラックで、チベタン(チベット人)2人(名前はツドアオジ)が座席で笑っていた。戦友との再会だ。
 別に待ち合わせしていた訳ではないのだが、縁とは不思議なものだと思う。

 トラックに乗り込むと、昨日までと同様にゆっくりと走り出した。走り出してからこのトラックがノロノロ運転で走ることを思い出し、「しまった」と思ったがこれも縁だ。

 後続の車に次々と抜かれ、1時間かかってようやくコダリに着いた。
 お金を払おうとしたが、彼らは受け取らなかった。代わりに飛びっきりの笑顔でお礼を言って彼らと別れた。



 コダリはイミグレと数件の雑貨屋・食堂があるだけの小さな街だった。
 イミグレでネパールビザ(シングル、$30)を取得し、当座のお金を両替した後、バラビセ( Ba(h)rabise )行きのバスへ乗り込んだ。

 コダリからバラビセ経由でカトマンドゥ(カトマンズ)( Kathmandu )まで、およそ150kmの道のりだ。
 バラビセまでは20km程の道のりだが、検問が2回あった為、到着まで2時間半かかっている。
 検問は徹底していて、乗客は全員降ろされてチェックを受けるというものだった。その為1回の検問に非常に時間がかかっていた。

 この検問は、政府がマオイスト(毛沢東主義派)の活動を厳しく取り締まっていたものだった。
 当時爆弾テロがあったのはニュースで知っていたが、バスの中には武装警官が待機しており緊張感を肌で感じた。



 ちなみに2008年、独裁的なギャネンドラ国王が退位して王制が廃止されている。
 反国王運動の中心になったのがネパール共産党毛沢東主義派達で、毛派のプシュパ・カマル・ダハル(通称プラチャンダ)首相が連立政権の実権を握った。
 現在の首相は、ドガ・プラサード・シャルマ・オリ氏(ネパール共産党)。

ネパール共産党は、かつて毛沢東主義派マルクス・レーニン主義に分かれていたが、2018年に合併している。

 ネパールは近年、インドの影響から離れて中国との関係を強化し始め、チベット難民への政策も変化しつつあるようだ。



 (2015年、ネパール大地震震源地の近くだったバラビセの街は、壊滅的な打撃を受けた(亡くなられた方々のご冥福をお祈りします))



 バラビセでカトマンドゥ行きのバスに乗り換える予定だったが、バスの便があったとしてもこの調子では今日中に辿(たど)り着けるか分からない。
 そこで、ここでもヒッチハイクをすることにした。

 運良く車はすぐに見つかった。カトマンドゥまで1台1000ルピー(当時のレートで1500円強)とのこと。他の旅人を誘って乗り込んだ。



 道中の検問は6回あったが、無事カトマンドゥに着いた。
 車は時速100km位で走っていた。乗り心地も良く、昨日のトラックとは雲泥の違いだった(しかしトラックでの体験の方が貴重に思える)。

 通常コダリからカトマンドゥまで5、6時間かかるらしいが、検問の遅れを十分取り戻して予定より早く着いた形になった。

 7年振りに見たカトマンドゥの街は大きく様変わりして豊かになっていた。
 この日は旅行者が集まるタメル地区にある、HOTEL PUSKARに宿泊した。



※地図





(旅した時期:2004年)

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西蔵編(33)シガツェ~ラツェ~ダム

 貧乏旅行者にとって、チベットからネパールに抜ける手段を確保するのは簡単ではない。
 シガツェ(日喀則)の西160kmにあるラツェ(拉孜)(標高4010m)の街から、国境の街ダム(樟木)(標高2350m)までバスがあるらしいが、外国人は乗れないとのことだった。
 自前の自転車で旅をするチャリダー以外は、人の力に頼るしかない。

 シガツェの宿(テンジン・ホテル(丹増旅館)(現在は閉館?))の親父の話では、ネパールへ向かう(戻る)ツアーの車(ランドクルーザー)に空席があれば乗せていってくれるとのことだった。
 しかし7月8月ならともかく、最近(9月)はネパールに戻る旅行者も少ないとのこと。



 (ヒッチハイク1日目)

 所持金の残高も気になり急ぐ気持ちがあった為、シガツェ滞在3日目にラツェに向かうことにした(シガツェ~ラツェまでバスで所要5時間半)。最終手段はヒッチハイクしかない。



 ラツェの街に着き、まずバスターミナルに向かいダムまで乗せてもらえるか交渉したが、やはり断られた。

 とりあえず昼食を取り、気分を一新してからヒッチハイクをすることにした。
 ヒッチハイクの経験は数える程しかないが、今までで一番必死だったと思う。
 狙い目はトラックだった。チベット・ネパール間で物資を輸送しているトラックがあると考えたのだ。

 運のいいことにヒッチハイクを始めてから1時間もしないうちにトラックが見つかった。もっと大変だと思っていたので嬉しい誤算だ。しかし、このトラックが曲者(クセモノ)だった。

 街の外れに検問があるから、その先で待っていてくれということだったので、徒歩で検問を越えて待っていたが、トラックがいっこうにやって来ない。
 1時間以上遅れて来たので理由を聞くと、パンク修理をしていたとのこと。
 後で分かったのだが、このトラックのタイヤは非常に古く、ちょっとした衝撃ですぐパンクした。結局ラツェ~ダムまで計3回パンクしている。



 合流して出発したのが18時だったが、走り出してしばらくすると雪が降り出した。夜になって冷え込んだせいもあると思われるが、9月に雪を見るのは初めてのことで驚いた。

 トラックは慎重に進んで行ったが、夜の21時頃にタイヤがパンクした(2回目)。
 雪の中、パンク修理を手伝った(標高が5000mを超える為、とにかく寒かったのを覚えている)。

 ようやくパンク修理が終わって再び走り出したのだが、23時に休憩に入った。
 トラックには2人のチベタン(チベット人)がいたが、この時1人しか運転出来ないことを知った。どうやら若い方のチベタンが疲れてしまったら休憩するしかないようだ。



 (ヒッチハイク2日目)

 休憩中に雪はいつしか雨に変わっていた。

 再び走り出した後、夜中の3時頃に突然トラックが止まった。見ると目の前の道路を濁流が横切っている。降り続いた雨で自然に川が出来てしまったようだ。
 これでは通れないということで、皆で川を堰(せ)き止める作業に入った。作業に1時間程かかった後、ようやく通れるようになった。



 朝の6時にティンリー(定日)手前の検問を越え、この後2時間程走ってから睡眠休憩と食事休憩を取った(計2時間程)。
 ちなみにティンリーからは天気がいいとチョモランマ(エベレスト)(8848m)が見れるそうだ。



 このトラックは時速10~15km位しか出ていないので、チャリダーの自転車にも抜かれていった。
 最初は、崖を走るのでゆっくり安全に走っているのだと思っていたが、平地でもスピードは変わらなかった。タイヤが古い為、未舗装の道で速度を上げるとすぐにパンクしてしまうらしい。



 その後、17時にニャラム・ペルギェリン(ミラレパ寺院)(宗教詩人ミラレパ(1052~1135)が瞑想修行した場所)のそばを通ったが、参拝するのを我慢した。



 18時半にニャラム(聶拉木)の街に着いたが、休憩も取らずにすぐに検問を抜けた。
 正直疲れ切っていたのでここで宿泊しても良かったのだが、あと30km走ってダムの街まで行くとのこと。

 ニャラム(3750m)からダム(2350m)までは、標高差1400m。その間僅(わず)か30kmで駆け下りる形になる。
 この間今までの乾燥していた空気が一変した。マイナスイオンに溢れてとても心地良く感じる。道路の脇に緑が増えていった。
 インド亜大陸方面から北上してきた湿った空気が、ここで雨を落としていくのだろう。

 実際に激しい雨が降って来た。
 そんな中、何とかダムまで持ちこたえてくれと祈っていたが、21時頃タイヤがパンクした(3回目)。



 大粒の雨の中びしょ濡れになりながらパンク修理を手伝い、ダムの街に着いたのは22時だった。

 チベタン達に運賃は幾らか聞くと100元(当時のレートで1500円弱)とのこと。妙な一体感が生まれていたので値切る気にはならなかった(後で知ったのだが、一般的には1人当たり100~200元が相場だそうだ)。

 彼らと別れた後、宿(剛堅賓館)に着いてから荷物を確認した。
 幌(ほろ)の無いトラックの荷台に、むき出しの状態で積んであったリュックの中身は、予想通り全て濡れていた(カメラに入っていたフィルムも濡れてしまった為、撮影した写真も駄目になった)。
 それでも無事辿(たど)り着いて良かったと思う。
 ラツェからダムまで所要約30時間の旅だった。



 ちなみに、ラツェ~ダム間(約300km)にかかる時間は、ランクル(ランドクルーザー)だと7、8時間だそうだ。

 また将来的には、チベット・ネパール間の鉄道を敷設(ふせつ)する計画があるらしい。



※地図





(旅した時期:2004年)

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西蔵編(32)ギャンツェ

 ギャンツェ(江孜)は、ラサ(拉薩)の南西260km、シガツェ(日喀則)の南東100kmに位置するチベット第3の都市だ(標高3950m)。
 ヒマラヤ交易の盛んな時代には、インド・ブータン方面とラサ・シガツェとを結ぶ交通の要衝、交易の中心地として栄えた。

※シガツェやギャンツェも外国人非解放区の為、本来なら入境許可証(チベット滞在許可証)が必要だ(許可証を持ってない状態で見つかると罰金を支払わされる)。
 ギャンツェでは公安のチェックが厳しいと聞いた為、事前にシガツェの街で100元を払って許可証を申請したが、結果的に許可証を提示する機会は無かった。



 他の旅人と同乗して乗ったタクシーで、シガツェから1時間位でギャンツェに着いた。
 ちょうど麦の収穫の時期らしく、車窓から見る金色の麦の穂が美しかった。



 ギャンツェの街でまず目に入るのはギャンツェ・ゾンだ。

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 ギャンツェ・ゾンは、(9世紀頃からその原型は存在したが)14世紀のサキャ王朝時代にギャンツェ地方の君主パクパ・ペルサンポ(1318~1370)によってツォン山に築き上げられた城塞で、1904年にフランシス・ヤングハズバンド(1863~1942)率いるイギリス軍の侵攻を受けた際、ここが激戦の舞台となった(3ヶ月で陥落)。

※フランシス・ヤングハズバンド:イギリスの陸軍将校、探検家、スピリチュアル・ライター( Wikipediaこちら )。

 ちなみに、この宮殿を称えた言葉【チェ・ガル・ギャン】(王者・宮殿・頂上の意)が訛(なま)ってギャンツェと呼ばれるようになったらしい。



 この街で最も有名なのは、パンコル・チョーデ(白居寺)( Palkhor Monastery )だ。

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 パンコル・チョーデは、15世紀前半にギャンツェ王ラプテン・クンサン・パクパの命により立てられた寺院で、創建当時はサキャ派だったが、後にゲルク派シャル派等も共存する学問センターになっている。

サキャ派とは、チベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ゲルク派ニンマ派カギュ派)。11世紀にクンチョク・ギェルポ(1034~1102)によって開かれたクン一族の氏族教団(世襲制)で、13~14世紀にはモンゴルの元朝と手を結んでチベットを支配した。

ゲルク派とは、チベット仏教の主要な四大宗派の一つ。15世紀にツォンカパ(ジェ・リンポチェ)(1357~1419)によって開かれた学派で、戒律を重視している。戒律を守っていることを示す黄色い帽子を被っていた為、黄帽派と云われた。17世紀にチベット最大勢力となり、ダライ・ラマパンチェン・ラマもこの学派に属する。

※シャル派とは、シガツェ~ギャンツェの間にあるシャル寺(夏魯寺)( Shalu Monastery )の座主プトン・リンチェンドゥブ(1290~1364)の教養を受け継ぐ学派。カギュ派サキャ派カダム派の影響を受けている。

カギュ派チベット仏教の主要な四大宗派の一つで、宗教実践を重視し在家密教を主眼としている。
 宗祖とされているのはナローパ(?~1040)、ナローパの弟子ティローパ(988~1069)とマルパ(1012~1097)、マルパの弟子ミラレパ(1052~1135)で、ミラレパの弟子ガムポパ(タクポ・ラジェ)(1079~1153)によって大成された。
 密教への傾斜が強いカギュ派には様々な分派があるが、宗教詩人ミラレパがカギュ派全体のシンボルとなっている。
 また、カギュ派ニンマ派サキャ派と共に紅帽派・古派と呼ばれている(ゲルク派黄帽派・新派・改革派と称される)。

カダム派とは、11世紀にインドからグゲ王国に招かれたアティシャ(982~1054)とその弟子ドムトン(1005~1064)によって開かれたチベット仏教最古の学派。15世紀にゲルク派に吸収された。



 本堂の仏像は創建当時からのものらしいが、チベットの仏像の中で一番印象に残っている。

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 チベットの他の寺院にも、かつて素晴らしい仏像が数多く祀(まつ)られていたと思われるが、そのほとんどが中国政府に破壊されてしまい、今拝観出来るのは新しく作られたものばかり。残念なことだ。

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 そういった意味で、この寺院の破壊を免(まぬが)れた仏像たちはとても貴重だと思う。

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 そしてこの寺院には、アジア仏塔史の最高傑作とも言われるパンコル・チョルテン(ギャンツェ・クンブム)がある(クンブムとはチベット語【十万の仏】の意)。

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 パンコル・チョルテンは、密教的宇宙の構造を表現したサキャ派様式の建築物。
 チベット最大の仏塔で、高さ34m、底辺52mの四角形(正確には36角形)、内部は8階建てで部屋の数は77室もある。

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 持参したヘッドライトを点灯して、8階まで右回りに螺旋を描きながら見学して行く。
 そこに描かれているマンダラは、まさしくタントラ(密教教典)の説く解脱への過程を示している。

 仏塔の頭部には巨大な仏眼が描かれていた(分かりにくいが、下記写真参照)。

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 多くの旅人達の言葉通り、ギャンツェの街は文化的に非常に興味深いところだった。



※地図





(旅した時期:2004年)

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