西蔵編(24)ラサ郊外(その8)ナクチュ
ナムツォ( Namtso )(納木錯)に1泊した後、ツアー2日目の目的地ナクチュ( Na(g)qu )(那曲)に向かった(ツアーバスで所要約4時間)。
ナクチュはラサ(拉薩)の北300km、チャンタン高原の中にある街で、標高4500m。主要産業は牧畜で、のどかな街ということだが祭りの時は大勢の人で賑わう。
残念ながら目的のホース・レース(競馬祭)は後日開催とのことだったが、この日は前夜祭ということで盛り上がっていた。
競技場の周りで、自然発生的に民族衣装を身にまとった人々が輪になって踊っていた。
※輪になった人々が歌っていたか思い出せないが、これは歌合戦「ツィッギャー」かもしれない。
競技場の周囲には出店がたくさん並んでいた。
(写真は、休憩中の店主)
競技場内に設けられたステージでは、前夜祭のイベントとして、チベタン(チベット人)歌手の歌やダンサー達の踊りが披露されていた。
(写真は、入場チケットを買わずに競技場に入ろうとする親子)
帰りにヤンパチェン(羊八井)に立ち寄り(ナクチュからツアーバスで所要3.5時間)、ツアー客達は温泉に入った。
そこからラサまで約2時間、宿に着いたのは夜の22時半だった。
日本から一週間程の休みを利用しチベットに来た旅行者達は、日程に余裕が無い為高度順応がままならない状況で観光をしなければならない。その為ナムツォやナクチュといった標高4500mを超える地域への旅行は高山病との闘いだった。
バスでの移動中、頭痛が辛(つら)くて眠ろうとする旅行者には、心を鬼にして声を掛けた(起こしていた)。
眠ると呼吸回数が減り、酸素吸入量が少なくなる。結果的に高山病の症状が悪化してしまうという悪循環になる為だ。
ラサに戻った後、高山病と闘いながらツアーに参加した旅行者達に感想を聞いたところ、しんどかったが行って良かったという意見が多かった。
※かく言う私も、ラサである程度高度順応出来ていたはずだが高山病の症状が少し出ていた。
※地図
(旅した時期:2004年)
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西蔵編(23)ラサ郊外(その7)ナムツォ
旅人達が絶賛していたナムツォ( Namtso )(納木錯)(チベット語で「天の湖」の意)へ1泊2日のツアーに参加して訪問している(ナムツォで1泊)。
※この地域は、外国人の立入禁止地域の為、ツアーに参加しないと行くことが出来ない。
ツアーの目的地はナムツォと、この時期ホース・レース(競馬祭)が開催されるナクチュ( Naqu )(那曲)だった。
聖なる湖ナムツォは、ラサ(拉薩)の北約190kmに位置する(ラサからバスで片道約5、6時間程だったが、現在は道路が舗装されたらしいので所要時間が短縮された可能性あり)。
塩湖として世界最高の標高にある(海抜4718m)。
最深部33m、東西の長さ70km、面積は1920km²(琵琶湖の約三倍)、青海省の青海湖(せいかいこ)(チンハイフー)に次ぐ中国で二番目に大きい湖で、チベット三大聖湖の一つとされている。
※チベット三大聖湖:ナムツォ、ヤムドク・ユムツォ(ヤムドク湖)、マパム・ユムツォ(マナサロワール湖)で、ユムツォとは、「トルコ石の湖」の意。
また、湖の後方に見えるのはニェンチェン・タンラ山(念青唐古拉山)で、ナムツォとの神聖な一対(ヤブユム)として崇(あが)められている(チベットでは、一対の山湖を父母神として崇める信仰がある)。
湖では、馬やヤクに乗って記念写真も撮影可能。
チベットに行く機会があれば、是非この聖なる青い湖を訪れて頂きたい。
※地図
(旅した時期:2004年)
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西蔵編(22)ラサ郊外(その6)ツルプ寺
ツルプ寺(ツルプ・ゴンパ)(楚布寺)( Tsurphu Monastery )を訪問したきっかけは一枚の写真だった。
旅人からカルマパ17世(1985~)の幼少期の頃の写真をもらい、その澄んだ眼差しをした活仏に興味を持ったのだった(後にこの写真は欲しがったチベタン(チベット人)にあげてしまった)。
カルマパ17世は、先代16世の生まれ変わり(転生活仏)として、1992年にツルプ寺で即位し、その後2000年にインドへ亡命している。
※上記写真は、英語版Wkikipediaより
チベット仏教カルマ・カギュ黒帽派の総本山であるツルプ寺は、ラサ(拉薩)の西約60km程に位置するトゥールン・デチェン( Doilungdeqen )(堆龍徳慶)区にあり、バスで3.5時間程かかった。
入場料を支払う際、カルマパ17世の写真を見せると半額の20元(当時のレートで約300円)にしてくれた。
※カルマ・カギュ赤帽派総本山は、ヤンパチェン寺
※カルマ・カギュ派は、12世紀にトゥースム・キェンパ(カルマパ1世)(1110~1193)によって開かれた宗派で、現在チベット仏教カギュ派の主流派となっている。
転生活仏制度(転生ラマ)を創始し、これは後にゲルク派(チベット仏教最大勢力)やその他の宗派にも採り入れられることになった。
※カギュ派はチベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ゲルク派、ニンマ派、サキャ派)で、宗教実践を重視し在家密教を主眼としている。
宗祖とされているのはナローパ(?~1040)、ナローパの弟子ティローパ(988~1069)とマルパ(1012~1097)、マルパの弟子ミラレパ(1052~1135)で、ミラレパの弟子ガムポパ(タクポ・ラジェ)(1079~1153)によって大成された。
密教への傾斜が強いカギュ派には様々な分派があるが、宗教詩人ミラレパがカギュ派全体のシンボルとなっている。
また、カギュ派はニンマ派、サキャ派と共に紅帽派・古派と呼ばれている(ゲルク派は黄帽派・新派・改革派と称される)。
かつては千人以上の修行僧がいたそうだが、人気(ひとけ)の無い静かな地で、修行に励む僧侶達が印象に残っている。
(写真は地元の子供達、水汲みの仕事をしていた。)
※地図
(旅した時期:2004年)
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おまけ(その6)本の話
※西蔵編(21)ラサ郊外(その5)サムイェ寺(後編)のおまけ記事
サムイェ寺で会った日本人旅行者に1冊の本を借りた(後に再会し返却済)。
その本のタイトルは、『プレアデス銀河の夜明け』(バーバラ・ハンド・クロウ著、高橋裕子訳、太陽出版刊)だ。
※太陽出版のHPを見ると、『新装版 プレアデス銀河の夜明け』の刊行が2004年の8月となっている。
私が本を借りた時期が2004年8月上旬だった為、旧版だったのかのかもしれないし、貸してくれた方が(献本等の)特殊な形で書籍を手に入れたのかもしれない。
・この本はいわゆるチャネリング系の書籍で、宇宙の高次元の存在とコンタクトを取ることにより得た情報を開示している。
前述のようにラサでUFOを見ているが、この本を読んでいる期間中の出来事だった(私の意識レベルが引き上げられていた可能性も考えられる)。
以下、いわゆる精神世界・スピリチュアル系の書籍について、自分の読書遍歴を振り返ってみたい。
まず入口は、アメリカ先住民の思想について書かれた書籍だった。
(輪廻)転生について、最初に知識として学んだのは仏教の教えによるものだが、ネイティブ・アメリカンの思想に触れたことにより、転生という概念を受け入れるようになった(最終的には旅等を通じた実体験により腑に落ちたという感じ)。
※以下、印象に残っている書籍(アメリカ先住民の思想関連)を一部紹介させて頂く(下記(1)~(3))。
(1)『一万年の旅路』(ポーラ・アンダーウッド著、星川淳訳、翔泳社刊)
・安住の地を大地震・津波で失われた部族(イロコイ族)が、ユーラシア大陸を横断しベーリング海峡を越えアメリカ大陸に渡った物語(口承史)。
・個人的な話になるが、この本を読んで感銘を受け、アメリカのイロコイ族に会いに行っている。
(イロコイ族の言葉)
一つの道でもなく、またもう一つの別な道でもなく、その二つの釣り合いが確かな道を照らし出す。
(2)『リトル・トリー』(フォレスト・カーター著、和田穹男(たかお)訳、めるくまーる刊)
・チェロキー族の祖父母に育てられた少年の話。
・後に著者の経歴を知り愕然(がくぜん)としたが、最初に読んだ時の感動は色褪(あ)せない。
(2021年6月23日 追記)
長くなるが、一部物語を引用させて頂く。
言葉がもっと少なかったら、世の中のごたごたもずっと減るのに、と祖父は嘆く。
ぼくだけにそっと言ったこともある。いつの世も馬鹿がいて、もめごとを引き起こすしか能のない言葉をせっせとでっちあげているのだ、と。もっともな話だった。
祖父は言葉の持つ意味よりも、その音、あるいは話し手の口調のほうに大きな関心を払った。言葉のちがう人たちの間でも、音楽を聴けば同じ思いを共感できる、と言う。
それには祖母も同じ意見だった。祖父と祖母が話し合うときがまさにそうで、交わす言葉の音とか口ぶりが大きな意味を持っていた。
祖母は名前を「ボニー・ビー(きれいな蜂)」と言った。
ある夜おそく、祖父が I kin ye, Bonnie Bee.と言うのを聞いたとき、ぼくにはそれが I love you.と言っているのだとわかった。言葉の響きの中に、そのような感情がこもっていたからだ。
また、祖母が話の途中で Do ye kin me, Wales ?とたずねることがあった。
すると祖父は I kin ye.と返す。それは I understand you.という意味である。
祖父と祖母にとっては、愛と理解はひとつのものだった。
祖母が言うには、人には理解できないものを愛することはできないし、ましてや理解できない人や神に愛をいだくことはできない。
祖父と祖母はたがいに理解し合っていた。だから愛し合うこともできた。
祖母はこうも言った。
理解は年を経(へ)るほどにいっそう深まってゆき、命に限りある人間のあらゆる思いや説明を超えたところまで行き着くことができる。だからこそ人はそのような理解を kin という言葉で読んだのだ、と。
祖父は、昔自分がまだ生まれないころは kinfolks という言葉は、自分が理解しうる人で、かつ理解を共有しうる人たちのことを意味し、したがってまた、愛し合う人たちのことを意味していたのだと言う。
だが、人々は自分本位になってしまい、その本来の意味とは無縁の、ただの血縁関係者を意味するものへと言葉をおとしめてしまった。
(以上、追記)
(3)『今日は死ぬのにもってこいの日』(ナンシー・ウッド著、金関(かなせき)寿夫訳、めるくまーる刊)
・アメリカ先住民の詩(うた)が心に残る一冊。
(以下、詩を一つ引用させて頂く。)
たとえそれが、一握りの土くれであっても
良いものは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえそれが、野原の一本の木であっても
信じるものは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえそれが、地平の果てにあっても
君がなすべきことは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえ手放すほうがやさしいときでも
人生は、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえわたしが、君から去っていったあとでも
わたしの手をしっかりつかんで離してはいけない。
その後に出会った本は、『神との対話』(ニール・ドナルド ウォルシュ著、吉田利子訳、サンマーク出版刊)だ(これもチャネリング系の書籍)。
旅先で出会った異国の友人より” Conversations with God ”という本を勧められ、日本に帰国後書店で探したところ、翻訳本が発売されていることを知った。
今この本は手元に無いが、印象深かったのは、思考・感情のエネルギーについての記述だ。
・我々が抱く思考・感情にはエネルギーがあり、一人の人間が長期間同じ思考・感情を抱くか、大多数の人が同じ思考・感情を抱くと、物(発明品等)や出来事として具現化しやすいそうだ。
例えば、我々が目にする人工物の全ては、かつて誰かの頭の中にイメージとして存在したものだ。
前述の『プレアデス銀河の夜明け』は、(こういった知識がベースとしてはあったが)精神世界の入口にいた私にとって、かなり突飛な内容だった。しかし興味深い一冊だった。
この本(『プレアデス銀河の夜明け』)を紹介してくれた旅人とは後に日本で再会している。
再会の日、待ち合わせの時間に余裕があった為駅前の大型書店に立ち寄ったところ、私の地元ではお目にかかれない程精神世界系の書籍が置かれていた(精神世界コーナーが出来ていた)。
そこで手にした書籍『フラワー・オブ・ライフ』(ドランヴァロ・メルキゼデク著、ナチュラルスピリット刊)の内容に衝撃を受けた。私の人生に大きな影響を与えた本だと思う。
『フラワー・オブ・ライフ 古代神聖幾何学の秘密(第1巻)』(脇坂りん訳)
『フラワー・オブ・ライフ 古代神聖幾何学の秘密(第2巻)』(紫上(むらかみ)はとる訳)
・著者が天使と呼ぶ高次元の存在からの情報を開示。
・書籍の中で、写真や図を使って書かれている内容は多岐に渡る。
・個人的に興味深かったのは、地球人と宇宙人との関わりについて。火星人やエジプト文明に関する記述は、陰謀論で語られるイルミナティと呼ばれる存在にも関連してくる話だ。
余談になるが、後年ドランヴァロ氏にお会いする機会を得た際、古神道の復興について語られていた。
(写真は、フラワー・オブ・ライフ)
私が『フラワー・オブ・ライフ』に出会った頃というのは、『(国分太一・美輪明宏・江原啓之の)オーラの泉』というTV番組によってスピリチュアルブームが湧き起こった時期と重なる。
その後、精神世界・スピリチュアル関連の書籍が手に入りやすくなったこともあり、結構な数の書籍を読み漁(あさ)った時期があった。
以上、精神世界・スピリチュアル系の書籍について記事を書いたが、私は特定の教え(宗教等)を信仰していないし、これからもしないと思う。
地球上に70億の人がいるのであれば、人生の答えは70億通りあってもよいと思っている。
各々(おのおの)が人生という山を登っているようなもので、山頂に至るまでの道は幾つもある。
山頂まで辿り着けなければ、次の人生で続きを歩めばよい。ただ少しずつでも前に進みたいと思う。
最後に『今日は死ぬのにもってこいの日』より詩を引用させて頂く。
人生について
わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
それは得難く、そして美しいものだ。
仮装して、だまくらかしながら、それは現れる。
大笑いしながら、現れることもある。
人生について
わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
なんにも。
わたしの答えは、わたしだけのもの。
おまえには通用しないだろう。
樹木と同じで、わたしたちは共通の根を持っている。
ところがその育ち方の違うこと!
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西蔵編(21)ラサ郊外(その5)サムイェ寺(後編)
チベット仏教ニンマ派に属するサムイェ(-)寺(サムエー寺)(サムイェ・ゴンパ)(桑那寺)( Samye Monastery )は、チベット最初の仏教僧院として有名(8世紀中期創建)。
チベット仏教建築史上最高傑作とも評される寺院は、全体が巨大な曼陀羅(マンダラ)になっており、密教の宇宙観を表している。
※ニンマ派は、チベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ゲルク派、カギュ派、サキャ派)で、カギュ派・サキャ派と共に紅帽派・古派と呼ばれている(ゲルク派は黄帽派・新派・改革派と称される)。
中央にはウツェ(大本殿)(須弥山)、北にダワ・ラカン(月亮殿)(月)、南にニマ・ラカン(太陽殿)(太陽)が配置されている。
その周りを囲む4つのチョルテン(仏塔、卒塔婆、ストゥーパ)は四天王を意味する。
陰陽五行説や風水では、東=緑(青)、南=赤(紅)、西=白、北=黒を意味するらしいが、この寺院の仏塔は方位と色が合わないので他に基準があるのかもしれない。
サムイェ寺の仏塔は、以下のように配置されている。
北東:緑塔
南東:白塔
南西:紅塔
北西:黒塔
※上記の塔の配置に影響を与えたかは不明だが、8世紀末にこの地でインド仏教と中国仏教との間の宗教論争が行われ、インド仏教が勝利したという記録がある。
以降のチベット仏教の方向性が決まったこの論争は、サムイェ寺の宗論と呼ばれている。
(写真は黒塔)
また他にもウツェを囲む12の建物があり、仏教の世界観である四大州と八小州、つまり全世界を表している。
寺院を囲む直径336m、高さ4m、厚さ1.2mの長壁は鉄囲山(てっちせん)(外周の山)を意味している。
(写真は、ヘポ(・)リ(東の小山)のタルチョ(祈りの旗)、五つの色は物質の五元素【地・水・火・風・空】を表している。)
(写真は、ヘポリに築かれていた古いチョルテン)
サムイェ寺も文化大革命により破壊されたらしく、寺院の建物や仏像はほとんどが再建されたものだ。
サムイェ滞在中、郊外にあるチンプー(青朴)(渓谷にある修行場)にも足を延ばそうとした。
早朝、チンプー行きのトラクターが出発するということで乗り込んだのだが、30分も経たないうちに降ろされた。運転手の話ではチンプーと別の場所に行くのでここからは歩いて行けとのこと。
朝から何も食べておらず、周囲に店らしきものは無い(水しか持っていなかった)。当時所持していたガイドブック(『旅行人ノートチベット』(旅行人刊))には、サムイェから13kmと書かれており、テルドム温泉での苦い経験が蘇った為、行くのを諦めた。
※このブログを書くにあたり『地球の歩き方 チベット』で調べたところ、(チンプーまで)サムイェから7kmと書かれている。
チンプーを訪れた旅人は、とても静かで素朴な尼さん達との交流を楽しんだと言っていたが、標高4300m位あるようなので、あの時引き返して正解だったと思う。
ここサムイェで会った日本人旅行者に1冊の本を借りた。
後に再会した際に本は返却しているが、この1冊の本が私のその後の人生に(僅かながら)影響を与えることとなった。
※この本に関するおまけ記事はこちら
※地図
(旅した時期:2004年)
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西蔵編(20)ラサ郊外(その4)サムイェ寺(前編)
ラサ(拉薩)からサムイェ寺(サムイェ・ゴンパ)(桑那寺)( Samye Monastery )(ニンマ派)に移動する際、帰りは直通バスがあった(所要約6時間)が、行きはバス⇒船⇒バスと乗り継ぐ形となった(所要約7時間)。
※ニンマ派は、チベット仏教の主要な四大宗派の一つ(他は、ゲルク派、カギュ派、サキャ派)。
道中の船で写真を撮影したのでUPしたい。
遠くを見つめながら船の進路を決めていく船頭の、静かに澄んだ眼差しがとても印象的で、ヘルマン・ヘッセの著作『シッダールタ』(高橋健二訳)(新潮文庫刊)に登場する渡し守ヴァズデーヴァを思い出した(単に眩(まぶ)しかっただけかもしれない)。
※以下、『シッダールタ』より一部文章を引用させて頂く。
「傾聴することを川が私に教えてくれた。おん身もそれを川から学ぶだろう。川はなんでも知っている。人は川からなんでも学ぶことができる」
「生きとし生けるもののすべての声が川の声の中にある」
「川は至る所において、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、海において、山において、至る所において同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない」
(以下、同乗の少年がルンタ(「風の馬」が印刷された護符)を空に投げる様子を撮影)
少年の代わりに「ラーギャロー!」と掛け声を発した。
※「(キキソソ(天と地よ)、)ラーギャロー(神に祝福あれ!)」とは、チベットの神様を讃(たた)える言葉。
※地図
(旅した時期:2004年)
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おまけ(その5)メメント・モリ
※西蔵編(19)ラサ郊外(その3)ディグンティ寺(後編)のおまけ記事
鳥葬を見学した日の旅日記を読み返したところ、以下の記録が残っていた。
(1)睡眠中に藤原新也さん(作家・写真家)の面接を受ける夢を見た旨を記している(夢の詳細は不明)
(2)この日は私の祖父の命日だった
(1)について
藤原新也さんは好きな作家で、その著作を愛読していた。
鳥葬を見学する前に以前読んだ『メメント・モリ』(情報センター出版局刊)を思い出したのかもしれない(『メメント・モリ』は現在、朝日新聞出版より復刊されている)
※本の副題(サブ・タイトル):Mémento-Mori 死を想え
※メメント・モリとはラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」という意味の警句(Wikipediaより)。
(『メメント・モリ』より以下一部を抜粋させて頂く。)
本当の死が見えないと、本当の生も生きれない。等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならない。
死は生の水準器のようなもの。
死は生のアリバイである。
MÉMENTO-MORI
この言葉は、ペストが蔓延(はこび)り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。その言葉の傘の下には、わたしのこれまでの生と死に関するささやかな経験と実感がある。
(2)について
鳥葬場で祖父の体が解体される様子を見ていた子供達の真っ直ぐな眼差しを思い出す。
もしあの場で私の祖父が解体されていたとしたら、私は目を逸(そ)らすことなく最後まで見ていただろうか。
こういった奇妙な偶然の出来事が起きた場合、そこに何か意味があるのではないかと考えるのが習慣になっている(納得出来るだけの意味が見つからないこともあるが)。
死を想うことは生を想うことに通じる。
私の祖父は東京大空襲を経験しており、地獄絵図のような状況の中を生き延びた一人だ(もし空襲で亡くなっていたら、今私はここにいない)。
祖父が生きている間にもっとたくさん話をしておけば良かったと思う。
旅日記を読み返して思うのは、祖父に感謝したいということだ。
自分の人生は、土台となる多くの先祖達の人生によって支えられている。
生の中にすでに死は存在する。だからこそ、今を精一杯生きるべきだ。
(このブログを始めなければ、旅日記を読み返すこともなかったので、大切なことを思い出す良いきっかけになったと思う。)
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